桃山の染織



小袖の風靡とファッションの誕生
桃山時代は、中世以前の服飾文化が、近世以降の服飾文化へと大きく移行したターニングポイントでした。そしてそれは、小袖の流行と、新しい染織技術の開発や輸入、南蛮船がもたらす西欧衣服の影響という、集約すると3つの大きな要素がシンクロしてひき起こされたものでした。
この時代、小袖を一枚着するという習慣が定着し、一世を風靡します。これは、襲(かさね)装束以来の下着であった小袖が表着(おもてぎ)化したというものと、庶民の着ていた麻の布子(ぬのこ)や帷子(かたびら)が、武士や夫人たちの着用する絹の小袖に昇格したもの、という2つの方向性をもちます。
平安から鎌倉、南北朝、室町と時代を経るなかで、さまざまな戦乱がくり広げられ、下剋上による身分の変化が起こりましたが、その過程で、上流の人びとは重くて動きにくい襲(かさね)装束を一枚また一枚と脱ぎさって、ついには軽快で着心地のいい小袖に到達したのでしょう。
小袖は現在の和服の原型ですが、身ごろ部分は当時のもののほうが幅広でゆったりとしていて、帯も細帯で、余裕のある着こなしができました。機能性と快適さ、つまり合理性を追究した結果が、労働に勤しむ庶民の衣服と一致していったのは偶然ではなさそうです。
小袖を一枚着する方法は、着物一枚の中で完結する、絵画的な文様に対する意識を目覚めさせました。装飾では、従来から公家文化にはぐくまれてきた唐織に、それまで装飾としての地位が低かった染(そめ)、刺繍、箔置き加工(摺箔)がくわわり、染織のヴァリエーションは飛躍的に増大しました。ここに、織中心の服飾文化から、江戸の友禅や小紋ブームへとつづく染中心の服飾文化への転換が果たされます。そして文様表現は、織り込むことで描いていく唐織の制約からは自由な描写表現へと解き放たれ、桃山の解放的な気分とあいまって、華麗かつのびやかなものへと変化しました。
ところでこの時代に隆盛をきわめ、江戸時代に消滅した辻が花は絞り染の一種ですが、刺繍、繍箔、摺箔、描絵を加えたものも多く、いわば当時の技術が結集した着物でした。しかも、唐織や繍箔(刺繍+摺箔)の小袖とは異なる一種独特の趣向をもつものでした。
唐織や繍箔が緋(赤)や金色に代表されるあでやかさを追究したのに対し、辻が花は抑えた色みを効果的に使い、さらに、くま取りや墨描きなど、ぼかしと渋みを効かせて華美を抑制して、さびた趣きを表現しました。これは室町時代の服飾文化につちかわれた禁欲的な色彩感覚や、利休や織部の到達した精神性にも通じ、また、武士やその夫人たちが常に抱いていた戦乱の世の無常観をも感じさせます。辻が花は、静けさや安らぎと同時に、諦念や哀感、人の心の奥深くにある闇の部分をも照らしだすふしぎな布でした。そして染織の力と可能性にくわえ、服飾表現の幅をも大きく開き、後の元禄時代の文化にも多大な影響を与えたのです。
さて、16世紀は、友禅染以外の技法が出そろった時代であったともいわれます。明からは繻子、金襴、緞子、縮緬などの絹織物の応用技術が入り、南蛮船では縞木綿や更紗、ビロード、毛織物がもたらされます。また、戦国武将たちが幕や旗差物、袴などに愛用し、その需要にともなって定着を始めた木綿栽培は、絹と麻しかなかった服飾文化を劇的に変えていきます。
さらにまた、16世紀は、ズボン、シャツ、靴、帽子、傘など現代の洋服文化が南蛮船によりもたらされた時代でもありました。
こうした時代、人びとは自らの気分にフィットする色柄やコーディネイトを求め、それを身にまとう楽しさに開眼し、人の目に立つダテな着こなしがいっそうの刺激を呼び合いました。人びとは、流行(ファッション)の波をひき起こす力と、その波に乗る楽しさを知ったのです。
当時を語るのにしばしば引用される『おあむ物語』には、次のような言葉があります。
「おれが十三の時、手作りのはなぞめの帷子一つあるよりほかには、なかりし。そのひとつのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。……今時の若衆は、衣類のものずき、こころをつくし、金(こがね)をつひやし……沙汰の限りなこと」。
動乱の時代のさなか、たった一枚の衣服で何年もすごしたおあむが年老いて目にした、自由にファッションを楽しむ人びとの姿。ここには彼女ひとりの人生の中での服飾文化の激動ぶりがうかがえますが、おあむの小言には、現代の親が子や孫のファッションを見て、うとましがりつつも羨むようすが重なるのです。


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