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木綿

現在、私たちの日常着にかかすことのできない木綿が庶民の衣料として定着するのは、戦国時代から江戸時代にかけてのことである。木綿は日本人の衣生活に革命的な変化をもたらした。
木綿の原産地はインドとアメリカとされ、インドでは紀元前2000年頃から綿の栽培が行われていたようだ。ギリシアの歴史家ヘロドトスは紀元前445年にインドで綿の加工が発達していたことを記している。日本へは8世紀の終わりに、三河国に漂着した崑崙人によってもたらされ、紀伊、淡路をはじめ四国や九州で栽培したが、失敗に終わった。綿の生育は、気温が高く、日照時間が長いところにしか適さないからである。そのため、木綿は依然として舶来物として珍重されていた。
15世紀の後半になると朝鮮から綿布が大量に輸入されるようになり、16世紀には明からの綿布(唐木綿)の輸入が加わって、上流階級では木綿の着用が流行した。さらに南蛮貿易によって東南アジア諸国から縞木綿がもたらされ、その中にはインド産のサントメ縞(唐桟)やベンガラ縞、セイラス縞などが含まれていた。これらは近世日本の模様染や縞織の発達に大きな影響を与えた。
国内で木綿の栽培が始まるのは16世紀初め頃のことである。木綿は丈夫で耐久性にすぐれているため、戦国時代の武士たちは幕や旗差物、袴などの衣料に用いた。需要の増加にともなって三河などで木綿栽培がはじまり、またたく間に近畿・関東地方でも栽培されるようになった。江戸初期には農民の着物も麻から木綿へと転換し、江戸中期になるとほとんど全国的に木綿織物が生産されるようになって、各地で特色のある銘柄木綿を産出した。さらに縞や絣、型染や筒描、藍染など文様と染色技術の進歩とともに、多様な綿布が生産されるようになった。木綿以前の庶民の生活は、まさに寒さとの戦いであった。下層社会の人々は厳寒期にも麻や葛、楮などでつくった衣服のみで過ごすため、疫病(流行性感冒)で多くの人が死亡したと伝えられている。暖かくて丈夫で肌触りのよい木綿は、庶民の生活にも心にもやすらぎを与えたのである。そのため、木綿は霊財・霊草・宝物とあがめられた。
綿の需要の増大とそれにともなう綿作の発展により、これを扱う商人たちが集散地に問屋を形成した。一方、窮乏にあえぐ農民と大地主の出現、また綿織物の工程の分業化による機屋、さらし屋、紺屋の登場などで、農村の階層分解が広がった。地主のなかには綿買いを行なう買次から在郷問屋へ成長したものもみられる。有力木綿問屋の扱う額は厖大なものであった。
綿作は米作の二倍以上の収益を、加工して木綿にすればさらに綿作の二倍以上の収益をあげた。こうした商業的農業の発展は、年貢米の徴収を財政の基盤とする幕藩体制を変容・崩壊させていく。木綿は庶民の衣生活に画期的な変化をもたらしたばかりではなく、日本の封建的社会経済構造を根本的に変革させる要因にもなったのである。


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