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最古の絹づくりは、中国において新石器時代に始まったといわれる。山西省南東部の彩陶遺跡から出土した半個の繭殻と紡錘車、江蘇省から出土した黒陶にみられる蚕の文様などから、絹の生産が推定されたものである。以来、古代中国では、錦、綾、羅、紗、平絹などすぐれた絹織物の技術を発達させたが、国外に製品としての織物がもたらされることはあっても製法は秘密にされていた。そのため、紀元前後まで、中国は世界で絹織物を産する唯一の国であった。
シルクロードを通じて中央アジア、西欧、東欧、南欧へと絹織物が広がると、もっともすぐれた織物として珍重され、人びとははるか東の絹(セル)のなる木が生える中国を、「セレス」とよんで憧れたという。しかし、やがて5世紀のはじめに中央アジアのコータン王国に、また6世紀中ごろには東ローマ帝国に製糸法が伝わり、以来、その技術は徐々に西漸して、ギリシア、フィレンツェ、シリアなどに伝播した。また、中世には世界各地で絹織物が生産されるようになった。
日本では、弥生中期の飯塚や立岩遺跡の出土品に付着した絹が、この頃の存在を物語る。また3世紀の『魏志』倭人伝に「禾稲・紵麻を植え、蚕桑緝績(しゅうせき)して、細苧けん(注・糸偏に兼という字です)緜を出だす」とあり、当時、日本でも絹織物を産したことがうかがえる。
その後、5、6世紀ごろ、大陸から秦氏が渡来して帰化豪族となり、現在の京都・太秦(うずまさ)を拠点に養蚕と織法を伝えて発展させた。以来、京都が日本の絹織物の拠点となった。やがて律令国家が始まると、絹織物技術を受け継ぐ工人たちを組織した織部司をもうけ、絹織物の生産システムが整った。8世紀はじめには、織部司の桃文師(あやどりのし)が、伊勢、尾張など21カ国に派遣され、錦、綾、羅などの技術を指導したという。
こうした制度のもと、奈良、平安時代には多様な色を用いた錦や、二重織物、浮織物など刺繍にみまがうような美しい絹織物の技術を独自に発展させた。また地方でも阿波絹、越前絹、美濃八丈、常陸綾など、地名を冠した名産品が現れた。
やがて律令体制がゆるみ、武士が力をえる平安時代の後半から鎌倉時代にかけて、私的工房で公然と織物業を営むものが現れ、織部司は次第に力を失っていった。独自に活動をはじめた織手たちは、織部司の近隣の大舎人(おおとねり)町に集まり、「大舎人の綾」や「大宮の絹」とよばれるすぐれた織物を生み、室町時代には座(同業組合のようなもの)を組織して、応仁の乱の戦火による壊滅的な打撃を受けるまで、日本の絹織物を牽引した。
応仁の乱で堺、山口など地方都市に散った織手は、乱がおさまると帰郷した。そして、山名宗全の西陣跡には大舎人座が復活し、細川勝元の東陣跡には新興の練貫方が現れた。このとき、独占権を侵害された大舎人座は練貫方を訴え、両者は覇権を争うが、16世紀半ばより画期的な紋織法の考案と高機(たかはた)の導入によって、それまで手の届かなかった中国の唐織に匹敵する紋織物を開発した西陣方が圧倒し、後の西陣織の基礎を築いたのである。
なお、桃山時代を代表する唐織、繍箔、摺箔、辻が花などのきものは、いうまでもなくすべて絹織物である。その中でもとくに、刺繍にみまがう重厚な紋織りで豪華絢爛の時代を物語る唐織、また、辻が花をはじめ繍箔、摺箔の生地としても使われたつややかでしなやかな練貫(ねりぬき)は、この時代をもっとも象徴する織物であろう。また、緞子、綸子、紗綾、縮緬など、絹織物のさらなる応用技術が中国から輸入され、それを吸収しながら独自の織物文化に展開する素地を得たことはきわめて重要である。
以上、長い歴史の中でつねに人びとを虜にした絹織物であるが、その魅力は、細くて強靱な糸が織りなす滑らかさと光沢であろう。1個の繭からは800〜1200mの糸を紡ぐことができるが、それほどに細くて長い糸は、化繊が登場するまで他の天然素材からはとれなかった。ちなみにこの1本の細い糸は、2本のフィブロインといわれる繊維を、セリシンという成分が覆ってつくりあげたものだ。光を巧妙に反射させるフィブロインの三角形の断面形状と、糸を強靱にする特殊な成分セシリン。こうした生物の神秘が、何千年もの間、人びとを熱狂しつづけた絹の魅力の秘密であった。


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