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毛織物

羊が家畜化されたのは、今から約8000年前だといわれている。紀元前3000年頃にはシュメール人が毛織物を作りはじめた。同じころギリシアでも牧羊と機織りが行なわれていた。ホメロスの『オデュッセイア』には、オデュッセウスの帰りを待ちながら、毎日糸を紡いで機を織る妻ペネロペの姿が描かれている。
ギリシアについで地中海の覇権を得たローマでは、羊の毛の改良や毛織物の製造技術が発展し、毛糸や毛織物は庶民のあいだでも愛用されるようになった。牧羊や生産技術は、ローマ帝国の版図拡大にともなってヨーロッパ全土に伝わった。8世紀にはスペイン、北フランス、フランドル、フィレンツェ、ヴェネチアなどで毛織物貿易がさかんになり、10世紀頃には羊毛の染織や織物に携わる職人たちの「ギルド(同業組合)」が次々と結成された。なかでもフランドルは、イギリスから羊毛を輸入して毛織物を生産し、中・東欧へ輸出して、8世紀から16世紀へかけて、世界の毛織物生産・貿易の拠点となった。
フィレンツェが毛織物の中心地として栄えるのは11世紀になってから。13世紀には羊毛の洗浄から紡績、仕上げ、検査までを一貫する近代工場システムの原型を作りあげている。フィレンツェに蓄えられた巨大な富は、ルネサンスの原動力となり、後に「花の都」と讚えられるようになった。
14世紀になると、生産した羊毛のほとんどをフランドルやイタリアの諸都市に輸出していたイギリスでも、国内での加工が開始された。百年戦争が勃発した1337年、時のエドワード3世は原毛の輸出と外国産衣料の輸入を禁止、毛織物業を国家の産業とすることに力を注いだ。この結果、その後の20年で英国羊毛産業は驚異的な発展をみせ、エドワード3世は「羊毛商人王」と呼ばれるようになる。15世紀頃には糸紡ぎ車が開発され、さらに水車の動力を利用することによって生産能力が拡大。つづく16世紀には、イギリスは羊毛帝国として他国を圧倒するようになった。しかし「女が紡ぎ、男が織る」という昔ながらの伝統はつづき、今もシェットランド地方などに受け継がれている。

日本に初めてもたらされたヨーロッパ産の毛織物は、1555年(弘治元)にポルトガルから来航した貿易船が舶載したラシャ(羅紗)である。ラシャは、日本との貿易を円滑にするために藩主たちへの献上品として用いられた。目のさめるようにあざやかな濃い緋色のラシャを〈猩々緋〉といい、毛織物のなかで最上級のものとされた。武将たちこれを陣羽織にして愛用し、その高価さと稀少価値から、自らの権威の象徴としたのである。また敷物を陣羽織に仕立てなおしたり、祇園祭りの山鉾を飾る布に使うなど、本来の用途とは異なる使い方をすることもあった。 緬羊も珍しい動物として輸入されたが、その利用については考慮されることなく、浅草では、体に色を塗って見世物にしていたという。中世末期まで日本人にとって羊は空想の動物であり、毛織物も、それが羊毛だという意識をいっさいもたずに用いていた。以来、明治大正に至っても、羊の毛でつくられた毛織物という認識は一般にはまったくなかったようだ。
鎖国後もオランダの船は毛織物を持ち込んでいた。陣羽織から変形したラシャの羽織やラシャの合羽は、江戸中期まで上級武家たちに広く使われた。一般人の着用はたびたびの禁令で禁止されていたが、富裕町人や中級武士たちも、ラシャの合羽や羽織を着用しつづけた。江戸中期ごろから〈コローン・ラッセン〉、〈グロフ・グレイン〉という布地が輸入され、日本ではこれをラセイタ(羅世板)、ゴロフクレン(呉絽服連、呉羅服綸、呉絽福林)と称し、明治中期まで広く一般に愛用された。ゴロフクレンはやがて、粗い布地で黒いものを〈黒ゴロ〉と呼んで主として関東で、明るい染色のものは〈色フク〉とか〈フクリン〉と称して主に関西で使用されるようになった。フクリンは一段と優れたという形容にも使われ、「傾城にふくりんかけた御奉公(『柳多留』)」などの川柳も生まれた。


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