

「かぶき」と「伊達」
信長・秀吉の気宇壮大と、過激な美意識につらぬかれた安土桃山時代、人々は当世こそ黄金の湧出する「弥勒(ミロク)の世」だと現世を謳歌していた。しかし関ヶ原の戦以後、動乱の世は安定へと移行し、下克上の自由奔放で歓楽にあふれた世界は、新しい管理と秩序の世界へと変貌した。こうした重苦しい世情から「かぶき者」と呼ばれた若者たちが出現する。
「かぶく」の語源は「傾く」で、“異様な身なり”“常軌を逸したふるまい”をいう。「かぶき者」たちは、南蛮キセルを吸いまわし、大ぶりな髷を結い、狂紋(さまざまの模様を混ぜ合わせたもの)を染め出した衣装をまとい、おそろしく長い太刀を帯び、尋常ならざるいでたちで都を闊歩した。この異風異体の姿、そしてその精神そのものを「かぶき」といったのである。
こうした流行の風俗をいちはやく取り入れ、中世以来の風流踊り(季節の行事などに集団で仮装をし歌舞を演ずること)を重ね合わせて舞台で演じたのが初期歌舞伎である。慶長8年(1603)、出雲の阿国が京都で演じたかぶき踊りは、たちまち評判をよんだ。紅の小袖、金襴の羽織に紫の帯、白鞘の太刀に黄金造りの脇差、胸元には南蛮渡来の金のクルス(十字架)。阿国は男装をして舞台に登場したのだった。
藩体制の秩序を嘲笑し、主従の道を破っても傍輩に義理をたてる。徒党を組み、ときに狼藉をはたらいた「かぶき者」の本質は、封建支配勢力への反抗だった。この異風の風俗と精神は「かぶき踊り」の流行とともに、京の町で一般の人々にまで広がっていく。慶長9年(1604)、豊国臨時祭礼にくりだした京都の町衆の風流踊りは、内裏から都大路へと異常な熱狂を巻き起こしながら練り歩いた。こうした人々の熱狂は、「かぶき者」とともに幕府の警戒心をかきたて、以降の豊国祭は中止され、これを最後に京の町に風流踊りが現れることはなかった。
「伊達」も「かぶき」と同様に、南蛮衣装を好み、異様な風体をした若者の気風をあらわした。その語源は珍奇な南蛮姿をてらった武将、伊達政宗に由来している。
解説:ジュバン|カルサン|メリヤス|マント|陣羽織|南蛮キセル|ビロード|更紗
夫人の衣|武士の衣|南蛮好み|農民・町人の衣|能装束
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