

京都・紫野にある臨済宗大徳寺派本山。鎌倉時代の末、宗峰妙超が小庵を結んだのが始まり。応仁の乱で焼失したが、一休宗純のときに隆盛となった。
京都の臨済宗の寺院には、それぞれの性格に応じた愛称があり、これを禅面(ぜんづら)と称している。たとえば相国寺は「声明づら」、建仁寺は「学問づら」、妙心寺は「そろばんづら」といったぐあいに、その寺の特色を巧みに表現している。大徳寺は「茶づら」と呼ばれ、これをもっても茶の湯との関係が深いことがわかる。
大徳寺と茶の湯の関係といえば、なんといっても村田珠光が一休に参禅し、その印可の証として圜悟(えんご)禅師の墨蹟を与えられたという逸話を思い出すが(コラム「禅と墨蹟」参照)、以来、茶と禅、茶と大徳寺といった関係が伝統的に生じた。珠光の弟子宗悟は古岳宗亘(そうこう)に参禅したといわれ、武野紹鴎も同じく古岳に禅を学んだ。また、千利休もしばしば参禅し、禅の奥義を究めて侘び茶の精神にこれを取り入れたのである。
しかし、大徳寺が茶の湯と緊密な関係をもち、繁栄したのは一休が応仁の戦乱を避けて堺に逃れ、彼の地で焼失した大徳寺伽藍の復興資金を信徒から集めて以来のことであろう。そして、紹鴎の師である古岳が堺に南宗庵を開き、三好長慶が父の菩提を弔うためにこれを南宗寺と改めてからは堺の豪商を含めて次第に大徳寺派の南宗寺、その本山大徳寺との緊密な関係が構築され、財政的にも多大な支援がなされた。とくに南宗寺一世、大林宗套に対する堺の豪商たちの帰依は厚く、紹鴎門下の今井宗久、津田宗達、その息子宗及らは競って参禅した。こうして大徳寺を中心として、しだいに茶禅一味の思想が起こり、大徳寺と茶の関係が深化していくのである。
なお、利休が自身の木像を大徳寺の山門に掲げて秀吉の不興を買い、自刃の遠因を作ったことはつとに名高いが、これは利休の増長といったものではなく、古渓らを含む大徳寺側が十分に検討を重ね、七十になんなんとしてなお茶の道に精進する利休の姿を像として山門に安置したにすぎないのである。
関連図版:
一休宗純墨跡 七仏通戒偈|
五種古棗
関連コラム:
堺の茶系
解説:
千利休|
古田織部|
小堀遠州|
きれいさび|
孤蓬庵|
破格の茶|
燕庵|
草庵茶室|
待庵|
武野紹鴎|
四畳半茶室|
村田珠光|
佗び数奇|
不審庵|
千宗旦|
茶禅一味|
北野大茶会|
豊臣秀吉|
黄金の茶室|
茶の湯前史|
東山御物|
唐物|
高麗茶碗|
楽焼|
織部焼|
中興名物|
織田信長|
名物狩り
ウィンドウを閉じる