

三千家の誕生
千利休が秀吉によって死に追い込まれたとき、長男の道庵は数寄大名・金森可重を頼って飛騨高山へ、次男の少庵は蒲生氏郷によって会津若松へ逃れた。その後、蒲生氏郷、前田利家、徳川家康らのとりなしで利休の罪が許され、千家が再興されたときには次男の少庵が千家の2代目を継ぎ、道庵は細川忠興の茶頭となって豊後(大分)へ赴き、その地で最後を遂げた。以後、利休の本系は少庵からその子孫へと継承されていくのである。
さて少庵の息子宗旦の死に際し、千家は三家に分かれことになり、「三千家」と呼ばれた。宗旦は今日庵に隠居すると同時に、不審庵を三男の江岑斎宗左(こうしんさいそうさ)に譲り、1658年(万治元年)12月、81歳で没したのであるが、臨終の際、今日庵を四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)に継がせた。そこで後年、宗左の系統が表千家、宗室の系統が裏千家と呼ばれるようになった。
一方、宗旦の次男は一翁宗守(いちおうそうしゅ)といったが高松藩の茶頭となり、退任後、京都の武者小路に官休庵を建てた。この宗守の系統を武者小路千家、あるいは官休庵千家といい、先のふたつと併せて三千家と称するようになったのである。なお表裏というのは、不審庵が表に位置していたのに対し、今日庵は北裏に位置していたのでこのように呼ばれたものである。また、利休の同僚であった藪内剣仲は、下京の本願寺に仕えた関係から、三千家を上流(かみりゅう)というのに対して、藪内家を下流(しもりゅう)と呼んでいる。
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解説:
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