

堺の茶系
茶の湯の成立と発達を考えるとき、当時貿易で栄えた自治都市堺、および発展の原動力となった納屋衆の存在に言及しないわけにはいかないであろう。
室町中期の応仁・文明の乱によって京都が戦火に見舞われるようになると、多くの公家や僧が堺へ疎開し、次第に文化都市の様相を呈してきた。やがて足利幕府の力が弱まって細川氏の勢力が強くなると、堺ではこれを利用して中国貿易(当時は明)に乗り出し、巨万の富を得た。また、その頃から町の政治は町人たちの自治制で行なわれるようになった。自治の中心となった36人は「会合衆(えごうしゅう)」と呼ばれ、さらにそのうちの10人は「納屋衆」といって実権を握っていた。こうした実力者は資産を有し、数寄者であったから、当時流行の茶の湯にうち込み、名のある茶道具も多数所持していたのである。
なかでも鳥居引拙(とりいいんせつ)、誉田宗宅(こんだそうたく)、竹蔵屋紹滴(たけくらやじょうてき)らは村田珠光の弟子であった関係から茶の湯者として認められていた。とくに引拙は天王寺屋という富豪の一族であったため多くの唐物を秘蔵し、珠光に次ぐ茶の湯名人といわれた。また、能阿弥の弟子の島右京という人物が師の没後、堺に移住し、その門下からは利休の最初の師となる北向道陳(きたむきどうちん)が現れた。そしてこのような環境のなかから、室町末期、武野紹鴎が出現したのである。
そのほか、利休とともに信長・秀吉の茶頭になる今井宗久、津田宗及(そうぎゅう)も貿易商・茶人として有名である。なお天正2年3月、信長は相国寺の茶会に堺の納屋衆を招いたが、そのメンバーとして紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上(やまのうえ)宗二、松江隆仙、高三(たかさぶ)隆世,千宗易(利休),油屋常琢(じようたく)、津田宗及の10人の名が見える。
なお、堺の町衆が茶人として活躍するうえで見逃せないのが、南宗寺の存在である。この寺は堺のかつての領主三好氏の菩提寺であるが、京都・大徳寺とは深い関係がある。開山した大林宗套(そうとう)以下、歴代のほとんどが大徳寺の茶史に多かれ少なかれ関係しているのである。そのため、大徳寺の伽藍建立には堺の経済力がものをいい、こうした縁から利休、宗久、宗及らはしばしば参禅し、茶事と関わったという経緯がある。
関連図版リスト:
千利休|
村田珠光|
武野紹鴎|
大徳寺
解説:
千利休|
村田珠光|
武野紹鴎|
大徳寺
関連コラム:
禅と墨蹟|
真行草の茶|
三千家の誕生|
茶の湯の変遷|
栄西と茶の伝来|
茶の製法と飲み方|
薬用に用いられた茶|
同朋衆|
能阿弥と茶の湯|
栄西と茶の伝来|
東山文化|
金森宗和|
茶道具|
露地|
千家十職|
織田有楽斎
ウィンドウを閉じる