キリシタン
 記録によれば、イエズス会はガラシャに最高の賛辞を与えている。彼女は自由な外出もままならない境遇のなかでローマ字を学び、宣教師と手紙のやりとりをしていた。聡明さや知識欲の旺盛さが、宣教師たちをひきつけたのかもしれない。
一方、あくまでもキリシタンとなることを拒否した夫の細川忠興も「tataoki」というローマ字の印を使うなど、その文化には興味を抱いていたようだ。  さて、戦国初期の大名のうち、有馬晴信、池田教正、黒田如水、大友宗麟、大村純忠、高山右近、小西行長らはキリシタン大名として名高い。なかでも大友、有馬、大村の三氏は、天正遣欧使節をヨーロッパへ派遣し、一般にもよく知られている。しかし、熱心なキリスト教徒という点では、大友宗麟と高山右近が双璧であろう。  宗麟は、最初に南蛮人宣教師と会ってから洗礼を受けるまで27年を要したが、その間宣教師を保護し、領地内には多くのキリスト宗団が形成された。しかし、キリシタンに改宗後、領国豊後は衰退の一途をたどり、その原因を改宗による天罰と決めつけられたにもかかわらず、最後まで信仰心を棄てなかった。  高山右近の場合、その悲劇的な様相はさらに強い。豊臣秀吉による「バテレン追放令」で棄教を迫られた大名のうち、彼ひとりが断固と拒否、所領を没収された。さらに徳川の治世になるとフィリピンのマニラに配流され、同地で没した。
 信長は宣教師らの布教にも寛容だったが、秀吉はこの広がりに警戒心を抱いたようだ。というのも、秀吉が九州を平定したとき、長崎は土地の所有権ばかりか、行政権や裁判権、またポルトガル船の碇泊税徴収権までイエズス会のものになっていた。秀吉としては、一つの宗教がここまで支配権をもっていることは、到底看過できるものではなかった。高山右近の悲劇の背景には、こうした為政者の論理が存在している。


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細川ガラシャ 

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