
政略結婚
戦国大名は、自分の子供や姉妹を「政略の具」として結婚させたり、養子に出したりということを日常的に行なっていた。和睦や同盟、帰服や臣従の証として、実質的には“捕虜”や“人質”として利用していたわけだ。
ガラシャの場合は父の明智光秀と細川家の関係強化のための婚姻だったが、本能寺の変で光秀が信長を討った時、細川藤高(幽斎)・忠興父子は光秀の協力要請を拒否した。利益やリスクを計算して不利と判断すれば、このように裏切られることもある。
戦国の代表的武将、織田、豊臣、徳川の場合を見てみよう。
織田信長は、徳川家康との同盟締結を機に、5歳の娘・徳姫と家康の6歳の息子・信康と婚姻関係を結び、美濃平定を前にしたときには、宿敵朝倉の盟友・浅井長政に妹のお市の方を嫁がせた。さらに、長男・信忠と武田信玄の娘・松を結婚させ、そのほか23人の子供たちを蒲生氏郷や前田利長ら、配下の有力武将、また二条秋実ら公卿などに配して地歩を固めた。
一方、子供の少なかった豊臣秀吉は、前田利家の娘・豪姫のような養女や養子を迎えたり、44歳の妹・朝日姫(旭姫)をわざわざ前夫と離婚させて家康と結婚させるなど、苦労しながら政略的な縁組政策を行なった。晩年には跡取りの秀頼に家康の娘・千姫を娶らせて、自身亡き後の豊臣家安泰を図ったが、結果的には失敗に終わったといえよう。
また幼い頃、人質として今川義元に預けられ、その娘・築山殿と結婚させられた徳川家康は、政略結婚の意義をよく認識していた。秀吉の死後、その重臣たちを自陣に引き入れるため、自分の娘ばかりか一門からかき集めては養女とし、次々に婚姻関係を結んで豊臣家を徳川の血縁で包囲してしまった。
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細川ガラシャ
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