
長篠の合戦
1575年(天正3)5月、三河・長篠城の西方、設楽原で織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼の騎馬隊を、鉄砲隊を使って壊滅させたことで名高い戦い。大量の鉄砲が始めて実戦で効果的に使われ、後の戦術・戦法に大きな影響を及ぼした。
長篠城は信濃から三河に通じる要衝で、この城をめぐって武田信玄と徳川家康の争奪が繰り返されていた。信玄の死後、家康がこれを奪い、臣下の奥平信昌が城主となっていた。5月11日、信玄の子・勝頼はこの城を奪還せんと包囲を始め、この知らせを受けた家康は信長に援軍を求めた。
5月14日、信長自ら三万の兵を率いて岡崎城に到着。18日には家康八千の兵とともに設楽原に到着した。そして設楽原を流れる連吾川沿いに布陣し、兵に持参させた木材を使って馬防柵を作らせた。一方、勝頼は逆に包囲されるのを恐れて、いったん城の包囲を解き、全軍を設楽原近くに移す。また20日の夜、信長は家康の家臣・酒井忠次に命じ、武田方の鳶巣山砦を攻めさせて後方を撹乱し、敵を馬坊柵の前におびき寄せるように仕組んだ。翌21日、夜明けとともに武田軍の攻撃が開始された。
戦国最強とうたわれた武田騎馬軍団は、馬坊柵の前まで来ると鉄砲の一斉射撃にあい、柵に取り付くこともできずバタバタと倒れた。信玄以来、軍の中核となっていた武将たちを次々と失った武田軍は敗退した。
この合戦で信長は三千挺もの鉄砲を用意しており、さらに三交代で連射できるシステムを考案していた。鉄砲そのものはそれまで実戦で使われはしたものの、威嚇兵器としての色彩が強かった。一発発射すると次の発射まで掃除や弾籠めに時間がかかるうえ、有効射程距離は100メートルほどしかなく、相手が騎馬の場合そのスピードについていけなかった。その弱点をカバーする策として、最前列の撃ち方が発射する間に、2列目、3列目が次の発射の用意をする仕組みを編みだして実用化したものである。
人物詳細
織田信長
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