秀秋の裏切りと悲劇的な生い立ち
関ヶ原の合戦で西軍から東軍に寝返り、のちに「裏切り中納言」と呼ばれた小早川秀秋だが、裏切りを決断するに至るまで、さまざまな葛藤があったことと推察される。
生まれてすぐ、子のない豊臣秀吉の養子となったが、秀吉に実子が生まれると小早川家に養子に出されてしまった。おとなの都合で別の家にふたたび養子にだされ、しかもわずか十三歳で小早川家の家督を継ぐことになった重責は、相当なプレッシャーとなってその精神形成に大きな影響を与えたことと思う。
 じつは秀秋は、当初、毛利宗家の養子にと打診されたのであるが、相談を受けた小早川隆景が思案の末に自分の養子にしたのだ。隆景としては毛利家から養子にきた手前、宗家に出来の悪い秀秋を入れては大変と、自分が願い出た形で秀秋を引き受けたのだ。このように、けっして望まれた形で養子にきたのではないという事実が、秀秋に暗い影を落としている。
 また経験の乏しい十代で、跡継ぎだ大将だと言われても、そうそう簡単に家中を掌握し、人望を得るのは難しい。しかも朝鮮出兵のとき、勝手な行動をしたことを石田三成に咎められ、21万石も削られてしまう。かくして自信もプライドも完全に叩きつぶされてしまった。なにをやってもうまくいかず、精神的にも追いつめられていたことだろう。
 関ケ原の戦いを目前にした時、旧領に復帰させてくれた家康の恩と、叔母であり育ての母でもある北政所が東軍側にいるのを意識しつつも西軍に加わり、家康が守る山城国伏見城を攻めた。が、一方で家康に密使を送って二股をかけていた。
 伏見落城後、病気療養を理由に西軍を離れていた秀秋の真意を疑った石田三成は、豊臣秀頼が十五歳になるまで、秀秋に関白職を委ね、しかも領地に播磨国を加封するという条件を出して、西軍からの再出馬を要請した。どちらにつくのか、ますます混迷の度を加えて決断はつかない。
 さて、いよいよ関ヶ原での決戦を迎えたとき、遅れて到着した秀秋は松尾山に布陣するが、病気を理由に東軍とは会おうとしない。両軍が戦闘状態になっても心は決まらず、動く気配はなかった。痺れを切らした家康は、小早川軍に向かって「誘い鉄砲」を撃たせ、秀秋を促した。これでようやく意を決した秀秋は、一万五千の大軍を率いて東軍に襲いかかり、決戦の帰趨を決定づけたのである。
 家康は、優柔不断な小倅ながらも、結果としては「恩人」となった秀秋に、備前美作五十万石を与えたが、秀秋はその後、諫言した老臣を殺したりするなど、家中をまとめることができない。家臣たちは次々に逐電して、小早川家は見る間に衰退していった。
 秀秋が二十一歳で夭逝したとき、以上のようなさまざまな要因も手伝ってか、宗家である毛利家の毒殺説、また関ケ原で寝返った時に殺した大谷吉継の怨霊に悩まされての狂死説など、いろいろな噂がまことしやかに流れたという。


人物詳細
小早川秀秋 



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