小牧・長久手の戦い
織田信長が本能寺に倒れた後、尾張の清洲城で信長の後継者を決める会議が開かれた。世に言う「清洲会議」である。このとき、信長の次男・信雄(のぶかつ)とその弟の信孝が後継者の地位を争うが、結局、本能寺の変で倒れた信忠(信長の長男)の長男・三法師(のち秀信。当時3歳)が後継者となり、信雄・信孝は補佐役となることで決着した。
その後、天下の覇権が秀吉に傾きはじめると、後継者問題で不満を募らせ信雄は、徳川家康に助けを求めた。1584年(天正12)、信雄は秀吉に内通していたとして3人の家老を殺害。これが秀吉に対する宣戦布告となり、家康は信雄を援けて秀吉と衝突することになる。これが、小牧・長久手の戦いである。家康・信雄の連合軍約1万7千、秀吉軍約10万は、相手の動きをうかがったまま睨み合いが続いた。対峙して8カ月、主力をぶつけ合う戦闘はついに行なわれなかった。 このなかで家康が一度だけ実際に戦ったのが、長久手の戦いである。秀吉軍の三好秀次(秀吉の甥)・池田恒興・森長可は、密かに本隊を抜け出て、家康が留守の三河を奇襲しようと出兵。これを察知した家康は、長久手で待ち受け秀吉軍を撃破した。秀吉が敗戦を知り出陣した時には、家康は早くも小牧の本陣に引き上げていた。肩すかしをくった秀吉はやむなく引き返し、戦線はふたたび睨み合いの状態に戻った。
対陣が長期におよび、しかも大苦戦を強いられた秀吉は、信雄を懐柔、単独講和を結んだ。これにより家康は秀吉と戦う大義名分を失って岡崎城に戻り、ようやく停戦を迎えた。翌85年(天正13)、秀吉は関白に叙任され、再三家康に上洛を求めたが、上洛とは臣従することを意味するため、家康はそれを拒み続けた。しかし秀吉が実母と妹を人質として家康のもとに送るにおよんで、ついに家康も折れて上洛、臣従を誓ったが、これによって家康は秀吉に次ぐナンバーツーの座を確保したのである。


人物詳細
徳川家康 

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