もうりもとなりせいぼつねん
1497年〈明応6〉−1571年〈元亀2〉かたがき
戦国武将

キャッチフレーズ
計略と外交戦で中国地方を平定した知将
戦国時代の武将。少輔次郎、右馬頭、陸奥守を称する。安芸国高田郡の国人領主毛利弘元の次男。5歳で母、11歳で父を亡くし、毛利家の家来筋にあたる井上家のもとで成長するが、家来同然の扱いを受け、苦渋と忍耐に満ちた青春時代を送る。
 27歳のとき兄・興元、甥・幸松丸の相次ぐ早世により、異母弟・元綱と争った末、1523年(大永3)家督を継ぎ、郡山城主となる。当時地方の小領主にすぎなかった毛利氏は、出雲の尼子氏を盟主に仰いでいたが、25年以降尼子氏と離れて周防大内氏に属した。40年(天文9)には尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されたが、籠城戦の末に翌年これを撃退した。引き続き従軍した大内義隆の出雲遠征では敗退したが、大内氏の援助のもとに芸備両国の経営を進めた。
 安芸守護職の武田氏を銀山(かなやま)城に滅ぼしたほか、安芸の有力国人の吉川(きつかわ)家に次男元春を、同じく沼田の小早川家に三男隆景を養子として送りこみ、乗っ取りに成功。国人層の主導的地位を占めた。また50年には老臣井上元兼一族の誅伐を断行し、家中の専制体制を確立した。翌年、陶晴賢(すえはるかた)によって大内義隆が滅ぼされると晴賢に従ったがその後断交、55年(弘治元)の厳島の戦で陶軍に大勝し、晴賢を自刃させた。
 その後防長に侵攻し、57年陶の擁立した大内義長(大友宗麟の弟)を滅ぼして防長二国を征服した。また出雲に侵攻して富田月山城を包囲し、66年(永禄9)尼子義久を降伏させた。この間、1563年には嫡子隆元を失ったが、孫の輝元に家督を継がせて後見するとともに、吉川元春、小早川隆景の両川(りょうせん)にも宗家である毛利家を支持させた。
 国人領主から一代にして中国地方一帯を支配する戦国大名に成長した元就は、日本における軍学の祖・大江匡房の末裔で、計略に優れた知将であった。その細心さは隆元ら3子に結束を説いた、有名な「三本の矢」の教訓にもうかがうことができる。71年、輝元が出雲平定に向かう最中、郡山城に75歳で病没した。    


関連人物
大内義隆 

関連図版
甲冑 




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