まえだとしいえ せいぼつねん
1537年〈天文6〉−99年〈慶長4〉 かたがき
戦国武将

キャッチフレーズ
篤実・律儀な豊臣政権の重鎮
安土桃山時代の武将。加賀藩始祖。幼名犬千代。孫四郎、又左衛門尉と称する。尾張荒子城主前田利昌の四男として生まれる。織田信長に近侍し、1551年(天文20)以来諸戦に従軍、数々の戦功をあげた。59年(永禄2)信長の勘気を受けて一時蟄居したが69年許され、兄に代わって家督を継いだ。
 75年(天正3)越前平定後、柴田勝家のもとで佐々成政、不破光治と府中三人衆として施政に当たり、81年信長から能登一国を与えられて七尾城に入る。83年賤ヶ岳の戦に柴田勝家軍として出陣したが中立を保ち、豊臣秀吉に降った。柴田氏の滅亡後、加賀金沢城主となって越前北ノ庄の丹羽長秀とともに北陸を制する大大名となった。そして85年秀吉の越中征伐後、長男利勝(利長)が越中3郡を領し、ここに北陸の雄藩としての基礎を定めた。
 秀吉とは織田部将時代の同輩であり、秀吉の室北政所(高台院)と利家の室芳春院とは幼なじみ、しかも三女まあ(加賀殿)は秀吉の側室、四女豪と六女菊は秀吉の養女という親族同様の関係にあった。 秀吉の信頼はとくにあつく、86年筑前守の称を譲られ、87年の九州征伐では京都・大坂の守備にあたり、90年の小田原攻めでは北国勢の総指揮に任じられた。93年秀頼誕生の後には守役に任ぜられ、96年(慶長元)秀吉・秀頼父子の参内に供奉して従二位権大納言に叙任される。
 98年利長に家督をゆずる。五大老の一員に任ぜられ、同年秀吉が没すると利家は秀頼の後見役として大坂城に入った。家康の動きを封じることがもっぱらの役割で、病に倒れてのちも家康と会見し、政局の緩和に努めた。99年閏3月3日大坂城内で病没した。利家の死により、政局はにはかに緊迫し、やがて関ヶ原の戦へと展開した。


関連人物
織田信長  豊臣秀吉  豊臣秀頼 

関連図版
武具 




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