ふるたおりべ せいぼつねん
1544年〈天文13〉―1615年〈天和元〉かたがき
戦国武将・茶人

キャッチフレーズ
自由奔放な「織部好み」の感性によって、絢爛たる桃山文化をリードした大名茶人
安土桃山・江戸時代前期の武将で、茶人として著名。美濃に生まれ、通称を左介、名を重然(しげなり)、また景安、古左、古織とも称した。初め美濃の守護大名土岐氏に属していたが、織田信長の美濃平定のときに父重定とともに信長に従った。播州攻略に活躍し、信長の死後は豊臣秀吉に属する。山崎の戦、賤ヶ岳の戦、紀州根来(ねごろ)攻め、四国征伐等に出陣し、1585年秀吉が関白に任ぜられると、織部も年来の戦功により従五位下織部正となり、山城国西ヶ岡に3万5000石の領地を与えられた。しかし98年秀吉が死ぬと家督を嗣子重広に譲って隠居し、伏見の自邸でもっぱら茶の湯三昧の生活に入った。1614年10月、大坂冬の陣で重広と東軍に加わるが、佐竹義宣の陣所で流れ弾にあたり負傷した。翌年5月大坂夏の陣で豊臣氏と運命を共にするかのように、織部は重広とともに突然の死罪を申し渡された。その原因には諸説あるが不明である。
 武将としての織部は堅実に戦歴を重ねた人で、それも槍一筋の手柄というより外交上の功績に負うところが少なくない。織部が個性的であり、その個性を十全に生かすことによって美的領域の一世を画したのは、ひとえに茶人としての側面であった。二代将軍徳川秀忠の茶の湯指南を務め、小堀遠州はじめ多くの大名たちの指導にあたり、大名茶を確立する一方、やきものや茶室にもすぐれた才能を発揮した。とりわけ形態、意匠ともにしばしば常形を逸した、異国趣味豊かな、自由で豪放なやきものを創造した。


関連人物
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