
ときいちぞく 
戦国大名
美濃一円を支配し、戦国前期の武家文化を彩った守護大名
南北朝時代から戦国時代まで200年余にわり、守護として岐阜一円の守護として栄えた土岐氏は、清和源氏、源頼光の流れを汲む。元々美濃国厚見郡南に所領を得、11世紀には茜部荘の荘司となり、鎌倉時代直前に土岐郡に移って土岐を名乗るようになった。
北朝の戦いで足利尊氏に従軍して功を挙げた土岐頼貞は土岐氏として初代の美濃国守護となった。その後、支配は美濃一円に広がり、桔梗柄の家紋から桔梗一揆と呼ばれる、戦闘力と団結力を誇る一族となった。14世紀半ば以降は尾張、伊勢の守護も兼ね、室町幕府にも大きな発言力を持ち、「土岐絶えなば足利絶ゆべし」と言われた。
頼貞は歌人としても優れ、『玉葉集』『風雅集』『新千載集』『新拾遺集』等の勅撰和歌集にも多くの作品が採られている。
また禅宗に帰依し、定林寺や光善寺、龍門寺などを創建した。とくに三代目頼康が革手城北に創建した氏寺正法寺は、十数ヶ寺の塔頭を数える大規模なもので、美濃の禅宗の中心として栄えた。応仁の乱を逃れて美濃に滞在していた学僧・万里秀九も正法寺の詩会に参加したり、古典の講義を行なったりと、旅の連歌師や都の文化人らが訪れ文化の交流拠点となった。
一族のなかには水墨画を嗜んだ者もいたようで、土岐氏の守護時代、美濃国には、伝統的な公家文化と新興の禅宗文化を習合した武家文化が花開いた。
応仁の乱後、土岐家と守護代の斎藤家両家で家督争いがこじれて激しい戦闘が繰り広げられることになり、この動乱の中で土岐氏の実権は次第に失われていった。
最後の守護を勤めた頼芸の時代には、成り上がってきた長井氏や斎藤氏などの勢力争いに巻き込まれ、最後は斎藤道三によって滅ぼされた。
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