

岐阜城は鎌倉時代、二階堂行政によって創建され、その後、1525年(大永5)に土岐氏の守護代斎藤氏が修復して居城とした。しかし美濃の要(かなめ)として重要になったのは、斎藤道三の居城となってからである。当時、稲葉山城と呼ばれた城は、土塁と濠に囲まれた惣構(そうがまえ)を形成し、三方に門が設けられていた。道三とその子・義龍の死後、龍興が跡を継いだが長続きせず、1567年(永禄10)9月、織田信長が入城して天下統一の第一歩を踏み出した。
信長は稲葉山城および城下の井口(いのくち)を岐阜と改称し、大規模な改修整備に着手した。 また、城下には商工業者を積極的に招き、楽市・楽座をしいて復興に務めた。人口はおよそ一万人ほどであったらしが、城下の繁栄ぶりはルイス・フロイスの『日本史』にも詳しく、バビロンの町にたとえられるほどであった。また信長は、ヨーロッパ人宣教師を大切にしたが、信長の長男・信忠の時代には教会と修道院が、さらにその後も病院や孤児院が建設されたと記録にある。
岐阜市教育委員会では、1984年(昭和59)より信長居館跡の伝承がある千畳敷周辺を発掘調査し、巨石の通路、土塁状の遺構、水路などを発見した。
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岐阜城(下からの見上げ)
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