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角倉父子と河川開発

京都の三長者のひとりと称された角倉了以(すみのくらりょうい)は、1603年(慶長8)以降、弟の宗惇(そうじゅん)、息子の素庵の協力を得て海外貿易に従事して巨富を獲得したが、一方で土木工事に関心を示し、全国の河川開削工事に積極的に関わった。
04年、帰国した貿易船を長崎まで出迎えた帰途、備前の和気川(倉敷川)を上下する高瀬船からヒントを得た了以は、帰国するとただちに京都嵯峨の大堰(おおい)川通船計画を実行に移した。上流の保津川をはじめとして難所が多く、工事は困難をきわめたが06年(慶長11)8月に完成し、以後、京都経済の大動脈となった。米、塩、木材、石材などが、遠く丹後や山陰からも運搬可能となったのである。川底が浅いため、舟運には和気川で見た船底の平たい高瀬船を用いた。また、この後も幕命を受け、07年には富士川、翌年には天竜川開削にも取り組んだ。なお京都では先の大堰川のほかに、明治初年まで物資輸送の大動脈として機能した高瀬川舟運を開いたことは、特筆に値する事業であった。
了以の長子素庵は若くして学問を修め、教養と幅広い交友を背景に京都の文化を支えたひとりであるが、本阿弥光悦らとともに出版した「嵯峨本」はとくに有名である。家業では父了以を助けて大堰川、富士川、天竜川の開削を補佐し、父の没後も角倉船を海外に派遣して貿易に従事した。また、大坂冬の陣では、徳川方の兵器や食料も運搬し、後には幕臣として淀川過書船支配などに任命された。


関連図版: 京都・高瀬川の「一之船入」

解説: 土木技術

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