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穴太衆と石垣積

「石垣といえば穴太(あのう)積」というくらい、高度な石垣積の技術を誇っていたのが、近江の穴太衆である。安土城のほかにも名古屋城、駿府城、江戸城などの石垣造営に従事した。また一族は熊本、加賀、福岡などの諸藩に仕え、その技術は全国に広まった。
信長は、安土造営にさいして全国からすぐれた職人集団を招集したが、石垣については地元穴太衆を任命した。これより20年ほど前、六角氏の居城・観音寺城の石垣を手掛けた穴太衆の技術を知っていたからであろう。
穴太積みの特徴は、長方形の石を野面(のづら)積みにし、その石と石との間の不規則な目地を大小の石で綿密に小詰めし、全体的に幾何学的な模様を構成していることである。目地に小石を隙間なく詰めることは、高度な技術を必要としたのである。
なお信長が石垣にこだわった最大の理由は、鉄砲の影響であった。伝来してからわずか数年で全国的に普及した鉄砲の威力のため、それまでの土を固めた土塁では間に合わず、二重三重に壁を築いた中に小石をいれた城壁がつくられた。新来の兵器によって、戦術の転換を余儀なくされたのである。しかし信長は「二重壁に小石をいれた壁」より、堅固な石垣つくりの城を選んだのである。なお、石垣つくりは高度の技術を要し、石材集めに莫大な負担がかかるため、小規模な領主や大名では不可能であったことはいうまでもない。


関連図版: 福岡城多聞櫓と石垣/福岡城天守台石垣

解説: 土木技術

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