

信玄堤
武田信玄の支配する甲府盆地には、富士川の上流である釜無川や笛吹川などの河川が流れ込み、しばしば氾濫を引き起こした。信玄統治の45年間に限っても、大規模な氾濫は10数回に及んだといわれる。こうした事態を憂慮した信玄は、1542年(天文11)の釜無川の大洪水を契機に堤防工事に着手し、20年近くの年月を費やして完成させた。
このときの工事は大きく分けてふたつあった。ひとつは釜無川の右岸に流れ込む御勅使川(みだいがわ)をふたつに分けてひとつを本流とし、残りを洪水のときにのみ使用、そして本流の左岸に16個の大石を並べて導流堤の役割を与え、流れを安定させるというもの。もうひとつは「霞堤(かすみつつみ)」と呼ばれる工法を使用、竜王高岩という場所から下流にわたって2キロの長さに土手を築き、その前方に33箇所の付出しを設けるという工事であった。付出しは流れに対して斜めに突き出ているため、洪水時には水がその内側に流れ込み、水流を弱める役割を果たした。
こうした土木技術をいかにして修得したのか、近年まで不明であったが、中国・明の技術書に類似の方法が記されていることから、鉱山技術の「灰吹法」などと同様、中国から伝わったものと見られる。なお、このときに採用された堤防は「甲州流」として後世に継承され、江戸時代以降の大がかりな河川工事を可能とさせた。また、完成した堤防は「信玄堤」と呼ばれ、現在もほぼ当時のままで利用されている。
関連図版:
信玄堤
解説:
土木技術
関連コラム:
穴太衆と石垣積|
角倉父子と河川開発
ウィンドウを閉じる