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南蛮文化と大航海時代

16世紀半ば、種子島へのポルトガル船漂着を契機にその来航が増えると、ヨーロッパの文物や風習が次第に流入した。またその直後には、ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教の布教も開始され、日本は聖俗両面にわたる南蛮文化=西洋文化の影響を受けるようになった。それでは一体なぜ、時を同じくしてポルトガル船やキリスト教が日本にやってきたのであろうか。
当時の状況を世界史的な規模で眺めると、ポルトガル、スペイン両国が海外へ進出した「大航海時代」のただ中であり、両国が熾烈な植民地争奪戦を演じていた時期と重なっていた。種子島にポルトガル船が漂着した50年前にはコロンブスが新大陸を発見(1492年)し、バスコ・ダ・ガマによるインド航路の発見やマゼランによる世界周航もすでに終了していた。またローマ法王庁の公認のもと、ポルトガルとスペインによって世界を二分割するというトルデシーリャス条約も締結され、西半分はスペイン、東半分はポルトガルの勢力範囲と定められていた。
地球の東半分を勢力範囲としたポルトガルは、アフリカ西岸を南下してインド、マラッカ方面に到達、インドのゴアをアジア進出の拠点としてマラッカ、モルッカ諸島を次々と支配下に置いた。来日する前のザビエルは、同じころゴアを拠点としてこの地域を精力的に布教していた。
ポルトガルは東アジアに進出すると中国、日本、東南アジアを結ぶ国際貿易に従事した。当時、日本は新大陸に次ぐ金・銀の産出国であり、これらを用いて中国や東南アジアから生糸、絹織物、陶磁器などを輸入しては日本に輸出するという、仲介貿易を行なった。この貿易から得た利益は大きく、とくに銀は1580年代(天正8−17)には毎年50万ドゥカドという莫大な量であった。
なお、ポルトガル船に比較してスペイン船の来航が少なかったのは、先に触れたトルデシーリャス条約により、東の勢力範囲がポルトガルと定められていたからである。しかし1580年に王位が絶え、スペインのフェリペ二世がポルトガル国王を兼ねることになったので、秀吉の時代はポルトガル人にしろスペイン人にしろ、彼らの君主は同じフェリペ二世であった。


関連図版: 南蛮屏風

解説: 南蛮文化

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