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ふたつの遣欧使節

1579年(天正7)、イエズス会東インド巡察師の肩書きを帯びたヴァリアーノが来日すると、ただちに布教活動の改革に取り組み、日本各地にセミナリオやコレジオなどの教育機関を設立して成果を挙げた。ヴァリアーノは日本を去るに当たり、使節をヨーロッパに派遣して西欧文明を実際に見聞させることを提唱した。ただちに有馬のセミナリオに学んでいた伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの少年四人がキリシタン大名の大友、有馬、大村三氏の名代として選抜され、1582年(天正10)2月20日、長崎を出帆してヨーロッパへと向かった。これが史上名高い「天正遣欧使節」である。
使節一行はゴア、リスボン、マドリード、フィレンツェを経て85年2月にローマ入りし、教皇グレゴリウス13世に謁見したが、教皇の死により使節は葬儀に参列、このあと新教皇シクストゥス5世の戴冠式にも参列することになった。ヴァリアーノは、教皇にはるか遠方から来たキリスト教徒を引見させ、また使節にはルネサンス文化の壮麗さやキリスト教世界の偉大さなどを見聞させることで、日本における布教活動の促進を意図した。さらに、イエズス会の日本布教における実績をローマ教会とヨーロッパ世界に強く印象づけ、これによって教皇から布教に対する援助を得ようとする目的もあった。四人の使節は所期の目的を達すると、ヨーロッパの最新印刷機とともに1590年(天正18)7月長崎に帰着し、翌年ヴァリアーノに同行して豊臣秀吉に拝謁した。
天正遣欧使節の帰国から13年後の1613年(慶長18)、支倉常長率いる「慶長遣欧使節」が太平洋を渡った。フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロほか180余名が参加し、メキシコ経由でスペインへ渡って国王フェリペ3世に謁見し、伊達政宗からの通商と宣教師派遣の要望書を奏呈する目的であった。その後ローマへ赴いて教皇パウルス5世と謁見し、ふたたびスペインにもどったが政宗の提案は承認されず、失意のうちに20年(元和6)帰国した。


関連図版: 伊東マンショ像  千々石ミゲル像

解説: 南蛮文化

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