

禁教と弾圧
1587年(天正15)、九州を平定した豊臣秀吉は、滞在先の博多で突然「バテレン追放令」を発した。長年にわたりキリシタンに寛容であった秀吉の急転ぶりに、周辺も驚きを隠せなかった。禁令は6月18日付けの11カ条と、翌19日付けの5カ条からなる文書である。これによると、キリシタンは「天下のさわり(障害)」であるとして、バテレン(宣教師)は20日以内に国外退去することを命じた。
追放令はただちに実行され、教会や宣教師の住居、また長崎などの教会領も没収されたが、宣教師たちは西九州に潜伏、迫害下とはいいながら信徒数は増加した。こうした禁令下の1590年(天正18)、ヴァリアーノは天正遣欧使節の一行を率いて帰国すると、ただちにキリシタンの再組織化を開始、ヨーロッパから持ち帰った印刷機で出版活動を行なうなど再建に尽力した。
ところが96年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリーペ号事件を契機に事態は深刻化した。積荷を没収された航海長が、布教活動で信者を増やした後に軍隊を派遣する、というスペインの領土拡張の方法を持ち出して脅しをかけたため、秀吉は当時畿内で布教活動していたフランシスコ会、イエズス会の修道士9名と日本人信徒17名を京都で捕らえ、長崎で処刑した。いわゆる「二十六聖人の殉教」である。
98年秀吉が没するとキリシタンは再び勢いを盛り返し、各地で信徒を増やしたが、徳川家康が覇権をにぎると1612年(慶長12)禁教令をだし、翌13年バテレン追放文を発令して宣教師を国外追放した。これによって、江戸幕府による本格的なキリシタン禁令と弾圧が開始された。とくに37−38年(寛永14−15)の島原の乱を契機に弾圧を強化し、信者の密度が高かった九州では踏絵や転(ころび)証文の徴収を実施するなど、次第に徹底化をはかっていくのである。
関連図版:
二十六聖人殉教碑(部分)|
郡崩れの大殉教碑
解説:
吉利支丹
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