

秀吉のバテレン追放令
織田信長亡き後も、豊臣秀吉は自らの家臣がキリシタンになることを容認していた。財務担当の小西立佐(行長の父)、書記役の安威(あい)五左衛門、側室の松の丸、秘書のマグダレーナ(日本名きゃくじん)など側近の多くがキリシタンで、配下の武将にも大勢のキリシタン大名がいた。フロイスの記録によれば、大坂城内には十数着の紅色の外套があり、豪華な組み立て式ベッドが置かれていた。そのほかにも、西洋風の椅子やテーブル、ジュータン、くつ、ズボン、ワイングラスとワインなどさまざまなヨーロッパ製品が目撃されている。大坂城の外でも、ポルトガル船で宣教師から西洋料理とワインでもてなされた秀吉を、博多の商人神屋宗湛が目撃している。
また、本能寺の変によって布教にもかげりが見え始めたころ、秀吉の保護で大坂に教会が築かれた。フロイスの記録によると、大坂では最良の土地で、川沿いの高台にあったという。約120×100メートルほどの広さであった。現在その場所は特定されていないが、京阪電車天満橋駅と松阪屋大阪店のあたりであろうと推定されている。
このようにキリシタンを容認していた秀吉は、1587年(天正15)に九州を平定すると、博多滞在中にまったく突然、かの有名な「バテレン追放令」を発した。これによると、キリスト教を邪教ときめつけ、20日以内に国外へ退去という厳しいもので、本願寺の一向一揆同様、「天下のさわり(障害)」であるとした。しかし、その第四条と第五条では一転して貿易の自由を保証し、ポルトガル船の貿易は売買自由、商人も仏法の妨げをしない限り往還自由としていることから、キリシタンの信仰と南蛮貿易を明確に分離していたことが窺えるのである。
解説:
吉利支丹
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