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キリシタン大名

ザビエルの来日によって布教が開始されたキリスト教は、拠点を西南九州に移してから徐々に勢力を伸ばしていった。西国の大名たちが、軍資金や軍需物資を獲得するため領国内にポルトガル船の入港を望み、宣教師たちの布教を許可したことが大きな要因であった。
肥前の大村純忠はキリシタンに理解を示すことで、当時、平戸でトラブルを起こしていたポルトガル船を自国内の横瀬浦に寄港させようと考え、1563年(永禄6)に受洗して初のキリシタン大名となり(洗礼名バルトロメウ)、長崎をイエズス会に寄進した。このあと、九州では78年(天正6)に大友宗麟(フランシスコ)、80年(天正8)有馬晴信(プロタジオ)が受洗した。
一方、キリシタンは畿内にも浸透していくが、当初は大名の保護を得られず、民衆への布教から開始された。しかし64年(永禄7)頃、三好長慶、松永久秀の家臣たちが日本人宣教師ロウレンソの説教を聞いて入信したのを契機に、高山友照(ダリオ)・右近(ジュスト)父子も受洗し、その後小西行長(アウグスチノ)、蒲生氏郷(レオン)、織田有楽斎(ジョアン)、黒田如水(シメオン)・長政(ダミアン)らも入信した。彼らの保護でキリシタンは大いに普及したが、87年(天正15)豊臣秀吉のバテレン追放令以前に大村、大友の両大名は死亡し、小西行長は関ヶ原の戦のあと刑死、高山右近はマニラに追放となって、ついにキリシタン大名は絶えてしまった。
キリシタン大名は家臣や領民の統制をはかるために神を絶対視し、神社仏閣を焼き払ったために領民や諸大名たちから反発を受けたが、こうしたことが原因となって禁教令が促進されたともいえよう。


解説: 吉利支丹

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