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信長とキリシタン

1581年(天正9)、ローマのイエズス会から派遣された巡察師ヴァリアーノ一行と京都で正式に謁見した織田信長は、その後安土城に彼らを招いてひと月近くも滞在を許可し、城や城下をくまなく見学させた、という記録が残っている。信長がいかに好意を持っていたかというひとつの挿話であるが、このあと京都に三階建ての南蛮寺を建設し、安土には教会堂やセミナリオ(学校)の建設を許可している。信長は教会を訪ねてはオルガンの音色を楽しみ、世界の地理、天文、風俗はもちろんのこと、地球が丸いことも理解していたと言われるほど西欧文化に興味を示した。
しかし、信長が当時バテレンと呼ばれた宣教師たちと交流を開始したのは、将軍足利義昭を奉じて上洛した翌69年(永禄12)からで、以後、本能寺の変にいたるまでの14年間に、分かっているだけでも京都で15回、安土で12回、岐阜で4回、合計31回も会見している。
信長が宣教師を優遇した理由としては、キリスト教の教義そのものよりも、彼らがもたらしたヨーロッパの技術や文化に強く惹かれたことが挙げられよう。新奇なものに対するあくなき好奇心は、彼らから贈られたビロードのマント、地球儀、時計、切り子ガラスといった南蛮の文物や多くの対話で得た西欧の最新知識を通して増幅されていったものと思われる。しかしこのほかにも、日本の仏教をきらっていた信長が、宣教師を利用して僧侶たちを牽制し、当時その数が増えたキリシタン大名たちを、宣教師を通してコントロールするという考えもあったようだ。


関連図版: 15世紀の地球儀 京都の南蛮寺

解説: 吉利支丹

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