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東アジア経済と日本銀

石見銀山の開発以後、銀の産出量が飛躍的に増大すると、貿易にも大きな変化が見られるようになった。16世紀のはじめまで、日朝間の貿易において日本は銀の輸入国であった。当時の朝鮮は銀が豊富に生産され、貿易の決済には銀が宛てられていたのである。
ところが、神屋寿禎によって石見銀山が発見された二年後には、はやくも日本銀が朝鮮に流入しはじめ、1538年(天文7)頃には持ち込まれる品はほとんど銀になっていた。40年代になると、日本からの輸入銀があまりにも大量となり、銀価が下落して「賤物」といわれるまでなったので、朝鮮ではついに日本銀の持ち込みを禁止してしまった。
一方、朝鮮に流入した銀は中国大陸にも大量に流れ、遼東半島などの沿岸部に経済的活況をもたらした。また半島経由でなく、直接、東シナ海を横断して中国沿岸部での仲介貿易に使用されるケースもあった。
こうした銀の吸引力によって、ポルトガルを筆頭とするヨーロッパ諸国が次第に東アジアへと引き寄せられてきた。1580年(天正8)頃には、ポルトガル船だけでも毎年五千から六千貫(2万から2万4000キロ)の日本銀を輸入したと推定されているが、この銀を使って中国から商品を買い入れ、日本に生糸や絹織物を輸出した。ポルトガルにつづいて、スペイン、オランダ、イギリスがアジアに進出してくると、日本・中国間の仲介貿易で儲けた銀を使って、香辛料、陶磁器、茶、絹織物を入手しヨーロッパ市場へと送った。東アジアにおける国際貿易の動向を支えたのは、まさに日本の銀であったのだ。


解説: 灰吹法

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