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神屋寿禎と石見銀山

戦国時代、金銀鉱山の開発ブームのきっかけをつくった石見(いわみ)銀山(島根県大田市)は、博多の豪商として名高い神屋宗湛の祖父・寿禎によって発見された。
当時、対明輸出品として銅が最重要品のひとつであったため、室町幕府は地方の守護大名に命じてこれを献上させ、輸出品として用いた。勘合貿易を請け負っていた大内氏と博多の商人神屋氏は、これをもっぱら出雲の鷺銅山に求めていたが、1526年(大永6)出雲へと向かった寿禎は海上から南方に光り輝く山を発見し、船頭に問うたところ、銀峯山(ぎんぷせん)といって昔、銀が採れた山であると告げた。さっそく、鷺銅山の山師三島清右衛門と共同で調査・採掘したのが、石見銀山(大森鉱山)である。
『銀山通用実録』によると、1533年(天文2)に寿禎が博多から宗丹、桂寿という技術者を伴い朝鮮伝来の灰吹法と呼ばれる銀の精錬法を導入し、以後、爆発的な増産をみた。60年代には友の浦という積み出し港では手狭となり、温泉津という港が利用されて大いに賑わった。灰吹法については別項に詳しいが、李氏朝鮮の『中宗実録』に「かの日本人、わが国奸人により造銀の術を学ぶ」と記されていることから、宗丹、桂寿のふたりの朝鮮人は重要な技術を国外にもらした裏切り者で、寿禎はさしずめ産業スパイということになろう。
なお1542年(天11)但馬の生野(いくの)銀山の発見は、生野の鉱石を石見で精錬したことが発端となったこと、同年の佐渡の鶴子(つるし)銀山、45年の肥後・宮原の銀鉱脈などの相次ぐ発見も、石見銀山との技術的、人的ネットワークなくしてはありえなかった。


関連図版: 元和年間石見国絵図

解説: 灰吹法

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