

平戸・横瀬浦・長崎
1543年(天文12)、種子島にポルトガル人が漂着して以来、彼らは薩摩や豊後に来航していたが、50年(天文19)になるとドン・フェルナンド・デ・メネーゼス船長率いるポルトガル船が、はじめて平戸に入港した。当時、平戸には倭寇の王直が拠を構えていたために明の船が頻繁に来航し、京都や堺の商人たちも多数集まっていたことから、ポルトガル船の来航も王直の誘いによるものと見られる。また、平戸の領主松浦隆信(まつらたかのぶ)は、貿易による繁栄を期待してポルトガル人の来航を歓迎した。
前年に鹿児島に上陸していたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、これを知るとただちに平戸へ向かった。隆信はザビエルにも好意を示したので、以後、貿易とキリスト教布教が平戸で開始された。55年頃には信徒500人を数え、57年には教会が建てられた。ポルトガル船は61年(永禄4)まで毎年入港し、平戸は大いに繁栄したが、ポルトガル人と隆信の家臣との殺傷事件により、62年からは横瀬浦に回航されることになった。
平戸に代わる貿易港を求めていた宣教師たちは、横瀬浦(長崎県西海町)という天然の良港を発見すると、領主大村純忠と会見した。純忠は好意的で教会建設を許しただけでなく、土地の寄進やさまざまな恩典を与えたため、ポルトガル人は「おたすけの聖母の港」と呼んだほどであった。また、純忠はみずから洗礼を受けてキリシタン大名となった。しかし63年、純忠と対立する後藤氏らの襲撃によって横瀬浦は壊滅的な打撃を受け、ポルトガル船はやむなく平戸に再入港することになった。
1570年(元亀元)、大村純忠はイエズス会と協定を結んで長崎を対ポルトガルの貿易港とし、翌年、ポルトガル船が入港した。以後、商人ばかりでなく、迫害を受けたキリシタンや大友氏、菊池氏らの亡命武士たちが次々と集まり発展していくが、80年(天正8)純忠は長崎をイエズス会に寄進して教会領となった。しかし87(天正15)年6月、博多でバテレン追放令を出した豊臣秀吉は、南蛮貿易の独占を図るために長崎を没収して直轄地とした。以後、江戸時代初期までは朱印船の拠点として、また鎖国後は唯一の対外文化の窓口として重要な役割を果たした。
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解説:
海外貿易
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