

南蛮貿易
1543年(天文12)ポルトガル人商人の種子島漂着を契機として、次第にポルトガル商船が西南九州に入港するようになった。来航の目的は、当時、明の海禁策で途絶えていた日明貿易を肩代わりし、加えて両国間の貿易を仲介することであった。ポルトガル船は57年(弘治3)中国からマカオ居住の許可を得ると貿易拠点とし、鹿児島、坊津、府内、平戸、長崎などに来航した。
九州の諸大名は貿易を活発化するためキリスト教の布教を許可し、併せて貿易船の誘致に努めた。とくに、肥前大村の領主大村純忠はキリスト教に改宗し、イエズス会の要請を受け入れて1570年(元亀元)長崎港を開いた。翌年、ポルトガル商船がはじめて長崎に入港し、以後、貿易都市として発展していった。しかし87年6月、博多でバテレン追放令を出した豊臣秀吉は、貿易独占を意図してイエズス会の所領となっていた長崎を没収して直轄地とし、翌年には長崎代官を置くとともにキリシタン武将小西隆佐を派遣して、生糸を独占的に購入させた。
一方、90年(天正18)頃からはスペイン船も平戸や薩摩領内に来航し、中国産生糸をもたらすようになった。また、1606年(慶長11)には徳川家康のたび重なる要請に応じて、スペイン船がはじめて浦賀に入港した。17世紀初頭に入ると、スペインに加えてオランダ、イギリス両国の商人が参加しポルトガルによる日本貿易独占の時代は終わりを告げた。徳川時代に入ると、キリスト教宣教師の国外追放、長崎貿易の管理強化など年々規制が加わり、島原の乱を契機にポルトガル船の来航は禁止され、代わってオランダが日本貿易を独占するようになった。
関連図版:
マカオに残るポルトガルの砦|
マカオの海岸通り|
16世紀ポルトガル帆船模型
解説:
海外貿易
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