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倭寇による密貿易

1551年(天文20)大内氏が滅亡し、勘合船による日明貿易が行なわれなくなったかわりに、倭寇(わこう)による密貿易が盛んとなった。倭寇の大部分は中国人で、日本人は2、3割程度であったが、王直(おうちよく)や徐海(じょかい)はそれぞれ五島・大隅に拠点をおき、中国大陸沿岸で密貿易を行なった。初期の倭寇は主に朝鮮半島周辺で活動していたが、次第に中国沿岸にも進出していった。なお明では、当時すでに中国大陸沿岸に出没していたポルトガル人のことを「仏朗機(フランキ)」と呼んで、倭寇の仲間に入れていた。勘合船の中止以後、明の嘉靖(かせい)年間を中心とした約40年間はとくに倭寇の被害が多く、これを「嘉靖の大倭寇」と呼んでいる。こうした倭寇の活発化は、中国との交易を求めた九州の戦国大名たちから歓迎され、領内に招く者も多く各地に唐人町を形成した。
これに対して明側では、総督胡宗憲(こそうけん)が倭寇に貿易を許可するという懐柔策で彼らを捕らえ、徐海や王直も討伐された。こうした明による弾圧や1567年(永禄10)の海禁令の緩和により、倭寇は次第に沈静化に向かったが、豊臣秀吉が88年(天正16)に海賊取締令を発布したことによりほぼ終息した。
なお、1562年(永禄5)鄭若曾(ていじゃくそう)が倭寇対策のために著した『籌海(ちゅうかい)図編』によると、倭寇が欲した商品は生糸、糸綿、布、綿紬、水銀、針、鉄錬、鉄鍋、磁器、古銭、古書画、薬材、漆器、醋などであった。一方留意すべきは、日本から輸出したのは銀であることだ。当時、東アジアの経済を支配していたのは銀であるが、戦国時代は「灰吹き法」の導入で日本国内の銀の生産が急増し、世界的にも注目されていたのである。後の、ポルトガル船来航の目的のひとつは、日本銀の獲得であったことはよく知られている。


解説: 海外貿易

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