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勘合貿易

中国大陸に明が建国されると、太祖は室町幕府に使節を送って倭寇の禁止を求めた。これに対して足利義満は、1401年(応永8)財政が窮乏していた幕府を救うため、朝貢(ちょうこう)の形式で対明貿易を開始した。
勘合船は1404年(応永11)から1547年(天文16)のあいだに17回にわたり84隻が渡航した。乗組員は1隻150人から200人くらいであったが、使節団員、水夫のほかは大部分が商人であった。応仁の乱以後には10年に一回、船数3、人員300人に限定された。勘合船の名義は足利将軍であったが、実際の経営者は有力守護大名や大寺院で、博多や堺の商人がそれらと結びついて活躍した。また、次第に細川・大内両氏のあいだで勘合の争奪が始まると、1523年(大永3)には両者の使節が寧波(ニンポー)で衝突するという「寧波の乱」がおき、その結果、勘合貿易は大内氏の独占となり、同氏が滅亡するまでつづいた。
輸出品は刀剣・槍・鎧・扇・屏風などの工芸品、硫黄・銅などの鉱産物で、輸入品は宋・元・明などの銅銭をはじめ、絹・羅・紗などの高級織物、生糸、薬材、書画、工芸品などであった。なお、銅銭は日本の貨幣経済に大きな影響を与えた。
勘合貿易は主として日本からの一方的な派遣であったが、16世紀には明船も来航するようになった。遣明船では多くの禅僧が行き来し、宋学の移入、医術、印刷術、陶芸、水墨画など、明の文化の受用に大きな役割を果たした。
なお、勘合貿易という言葉は俗称で、勘合(勘合符)を用いて行なわれた日明間の貿易と解されるが、勘合は船舶の渡航証明書ではあるが貿易の許可証ではなく、従ってかならずしも勘合貿易=日明貿易ではない。当時の日明間では、倭寇などによる密貿易も多く行なわれたからである。


解説: 海外貿易

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