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太閤町割りと近世城下町

戦国時代の博多はいくたびとなく兵火にかかって焼亡したが、島津氏を平定した豊臣秀吉はただちに博多の復興に着手、「太閤町割り」と呼ばれる都市整備を二度にわたって行なった。1586年(天正14)12月の最初の町割りでは、四散していた博多商人を呼び戻し、古井戸を手がかりに宅地割りを行なった。これは、博多の発展を支えていた息浜(おきのはま)商人の権益回復を図ることが目的であった。
翌年6月に行なわれた二回目の町割りでは、旧来の町割りの改編を目標とした。まず東西に分かれていた息浜と博多浜を統合した新たな町割りを行ない、「七流」と呼ばれる七つのブロックに再編された。また新たに入り江や湿地も埋め立てられ、楽市楽座、地子(じし)諸役免許、徳政免許を骨子とした掟書によって、自由な経済活動が保証された。こうした、二度にわたる太閤町割りにより、寺院の境内と門前町から形成されていた都市は解体され、寺院は周縁部に、町は中心部に集められ中世博多は近世の都市空間へと変貌をとげた。
次いで、近世都市へと脱皮した博多に、あらたに城と町が建設された。関ヶ原の戦の後、名島城に入った黒田長政は、1601年(慶長6)博多の対岸に築城を開始し、城下は福岡と命名され、城の北側に通された唐津街道には町人町が形成された。また北側には職人町が形成され、黒田家に従った商人や職人が居住した。鉄砲師、地張屋、金具屋、刀鍛冶、鞘師、具足師などの武器を扱う職人や、織物、裁物に関係した商人たちが多数を占めた。
こうして中世以来の博多と、遅れて移動してきた大名およびその直属の商人・職人たちの町福岡は、戦国期城下町の特質である二元的構造を引きずったままひとつの都市を形成するという、特異な城下町として成立した。その点、大坂夏の陣の後に幕府直轄となり、近世日本の経済社会を支える都市に変貌した堺とは、きわめて対照的であった。


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解説: 博多

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