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博多の豪商

近世初頭、博多では多くの商人が輩出し海外貿易に従事した。その最初は、室町幕府の三代将軍義満が遣明船を派遣したときの副使、肥富(こいつみ)氏といわれるが、その素性ははっきりしない。有力な説としては、小早川一族の海商で、明から帰国したのちに日明貿易のメリットを義満に上奏した人物と考えられている。
その後、大内氏の勘合貿易を担った神屋、奥堂、河上、小田といった商人たちが活躍したが、このうち神屋寿禎は大陸から「灰吹法」と呼ばれる銀の精錬技術を持ち帰り、石見(いわみ)銀山の開発に利用した。
戦国期、自治都市博多の経済を担ったのは博多の豪商たちであるが、なかでも島井宗室、神屋宗湛(そうたん)、大賀(おおが)宗九はその代表的存在で、博多三傑と称された。宗室の出自ははっきりしないが、博多、対馬、朝鮮の間で貿易を行ない、関西方面で売りさばいて利益をあげた。また、博多練貫(ねりぬき)酒の醸造、質屋などの多角経営でも成功した新興商人であるが、博多の領主大友宗麟からは九州六国の通行権と税金免除の特権を得るかわりに、領内の情報収集役を引き受けた。のちに堺商人を介して関西とも交渉を持ち、豊臣秀吉の信任を得たが、朝鮮出兵のさいには貿易ができなくなることをおそれ、これを中止するよう秀吉に諫言した。
神屋宗湛は、勘合貿易で財を成した神屋主計(かずえ)、寿禎(じゅてい)の子孫である。若年のころ、戦火を逃れて唐津に避難していたが、秀吉の招きで上洛し、大徳寺で剃髪した。1587年(天正15)正月、秀吉の茶会に招かれ歓迎されたが、これは朝鮮出兵のさいに協力させようとする秀吉の思惑であったと考えられる。事実、同年6月の太閤町割り、軍用米の調達、博多や名島の家屋建設などでは、島井宗室らとともに尽力した。
三傑の最後は大賀宗九である。祖先は豊前(ぶぜん)中津の出身で、黒田藩の福岡転封にともない移住した商人であることが、宗室、宗湛と異なる。つまり、黒田藩子飼いの商人であることだ。藩では、財政確立のために博多の富を必要としたにもかかわらず、豊臣色の強い従来の博多商人をきらい、黒田藩ゆかりの大賀宗九を取り立てたのであった。宗九は、徳川家に対する遠慮から、儲けの多い朱印船貿易の株を買わなかった黒田藩に代わって海外貿易を行ない、藩の御用商人として活躍した。
しかし、海外貿易によって輝かしい業績をあげた博多の豪商たちであったが、やがて対外交渉の窓口が平戸・長崎へ移って鎖国が完成すると活躍の場は閉ざされ、たんなる福岡藩の一商人へと転換せざるを得なかったのである。


関連図版: 豪商たちの船でにぎわった博多湾 神屋宗湛の墓

解説: 博多

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