

自治都市博多
博多の所有をめぐって大内氏、少弐氏らと激しい戦いを繰り返していた大友義鎮(よししげ。のちに宗麟)は、やがて最大のライバル大内義隆の死によって順調に勢力を伸ばし、1565年(永禄8)筑前を平定した。これによって九州六カ国の守護となり、また九州探題就任によって九州全域を支配下に治めた。
大友氏の頃の博多については、ヨーロッパ人宣教師たちの書簡が残っているが、これらを見ると当時の様子が浮かび上がってくる。
博多は商人の町で、九州でもっとも裕福であり、有力商人を中心とする自治が行なわれていた(ルイス・フロイス)。有力商人たちは戦いによって町が破壊されないよう、あらかじめ進物を贈って対処した(ガスパル・ヴィレラ)。しかし、いったん暴徒の襲撃を受ければ、博多市民は受けてたった。町には門が設けてあった(ジョアン・フェルナンデス)。博多市民はすこぶるバイタリティーに富み、戦争で二十軒しか残っていなかった家が、わずか二ヶ月で三千五百軒に増えた。それから十年もたたぬうちに、倍の七千軒を超える復旧ぶりを見せている。また、博多は日本一布教のやりにくい土地であった。その理由は、博多が富裕で贅沢な町だからである(ルイス・ダルメイダ)。
こうした書簡から、博多は市民による自治都市で、戦争を回避できない場合には戦闘をも辞せず、反骨精神と生活力を備えていた、ことなどがわかる。
なお、堺の市政では会合衆が中心となったが、博多では「年寄」と呼ばれる役職がこれを務めたと思われる。しかし1597年(慶長2)の史料では「十六人之年寄衆」とあるが、それ以前の数は不明である。自治都市として名高い堺とくらべると残された史料が少ないため、不明な点が多いのも事実である。
関連図版:
博多の町並(1550年頃)|
中国図(部分)
解説:
博多
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博多の豪商|
太閤町割りと近世城下町
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