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堺と鉄砲

鉄砲が伝来するとすぐに、堺の商人橘屋又三郎の手に入り、堺で製造されるようになった。10年から20年の間に技術や量産化が進むと、たちまち全国に普及した。1565年(永禄8)長崎港福田で松浦氏の船隊がポルトガル船を襲撃したとき、「堺で製造された簡単な火縄銃で攻撃してきた」とフロイスが述べているが、当時、堺の鉄砲生産量は全国一となっていた。
一方、1570年(元亀元)六月、姉川の合戦を目前にした豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)は、次のような手紙を書いた。

「鉄砲薬、いかにもよく候を、三十斤ほど、ならびに鉛硝三十斤、御調へ候て給はるべく候、別して御馳走頼み入り候」 
六月四日 昨夢斎 木下藤吉郎

この手紙の宛先、昨夢斎とは堺の豪商今井宗久のことである。鉄砲に欠かせない焔硝の原料、天然硝石は日本では産出しない。入手ルートをもった商人でなければ扱えない商品であり、しかも短期間で調達することは不可能である。戦国時代の商人は、茶人という文化人の顔と同時に、死の商人というきわめて現実的な顔も併せ持っていたのである。
また堺には多くの鉄砲鍛冶がいたが、その筆頭は芝辻、榎並(えなみ)の両家であった。現在多くの関係文書が残っているが、そのひとつによると、いちどに「千丁の御筒」の注文を受けたこともあるようだ。注文書に日付が入っていないが、関ヶ原の戦の直後であると推定されている。当時、堺ではこれほどの量産が可能であったという実例である。なお芝辻氏は、大坂の陣のさいには豊臣方から鉄砲500丁の注文を受けたが、同時に徳川方からも三匁五分玉の鉄砲500丁、六匁玉の鉄砲500丁の注文を受けた。芝辻氏は戦闘中、徳川陣中をまわって修理に奔走していることから徳川方と見られているが、豊臣方の注文した500丁がどうなったか、記録には残っていない。


関連図版: 堺の鉄砲屋敷跡

解説:

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