

自治都市堺
戦国時代の堺を考える場合、自治都市としての側面を抜きにして語ることはできない。当時のキリシタン宣教師も、「市中は大きくて豪商が多い。また自由で共和国の体制によって治められ、壮麗で富裕なことは他の日本の都市中、右にでるものはない」(ガスパル・コエリヨ)と記録し、ルイス・フロイスにいたっては「日本のベニス」と形容してその自治体制を賞賛している。
市政を運営したのは会合衆と呼ばれる堺の有力商人たちで、定員は当初10人であったが、後に36人になったという説と、数に変化はなかったという説もある。会合衆の下には各町の町年寄りや町代、月行事といった役職があり、町はそれぞれで運営されるといった重層的な自治体制をとっていた。
都市の自治を考える場合、防御の問題が大きいが、堺は海と環濠に囲まれていたという宣教師ビレラの記述どおり、発掘調査の結果で環濠や堀が出土した。また、町にはふたつの門が設けられ、夜間は番人がこれを閉ざすという習わしになっていた。
都市市民の精神の拠り所として、堺では開口(あぐち)神社があり三村社、念仏寺とも称された。戦国時代では会合衆が祭りの頭人を務めており、また堺の氏神として崇敬を集めた。
1615年(慶長20)大坂夏の陣のさい、徳川方の占領を恐れた豊臣方によって堺に火が放たれ、町は炎上した。この火災により、中世以来の自治都市として繁栄を謳歌した堺は、全域を焼き尽くされた。その後、徳川幕府による復興事業により、あらたに周辺農人町、寺町が加わり、周囲には堀が巡らされた。しかし中世堺の面影は失われ、その様相は大きく変貌してしまった。
関連図版:
堺の町並|
旧堺港|
環濠の名残りをとどめる濠跡|
開口(あぐち)神社
解説:
堺
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堺の豪商|
堺の町のくらしぶり|
堺と鉄砲
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