

飛騨高山の京風文化
戦国時代、戦乱に明け暮れた飛騨国は、1585年(天正13)豊臣秀吉の武将金森長近によって平定、90年には高山に城と城下町が建設された。以後、1692年(元禄5)まで金森氏6代にわたり、高山藩の中核都市となった。なお92年以降、明治までの177年間は幕府直轄の天領であった。
2代金森可重(よししげ)までの町域は宮川以東・江名子川以南の区域であったが、3代重頼の代には江名子川北岸に左京屋敷、宮川以西に向屋敷が建設され、町並みが拡大した。
高山はかつて、世にいう三国司のひとつ姉小路(あねがこうじ)氏が治めていた関係から、伝統的に京都風文化を受け入れ、文芸も盛んであった。四代済継、五代済俊らは戦国の時代にあっても学を好み、和歌にも堪能であった。また、城中で連歌の会が催された記録も残っている。
一方、茶の湯も大変に盛んで、金森家の当主は代々茶人としても有名であった。初代長近は千利休や古田織部に教えを受け、徳川家康を伏見の別邸に招いて茶会を開き、利休門下の二代可重は、のちに将軍秀忠の師範役を勤めた。三代重頼も同様に茶人として名声を得たが、1630年(寛永7)の飢饉のさいには、秀忠から賜った太閤伝来の「雲山肩衝(うんざんかたつき)」の茶壺を黄金三千枚で売却し、窮民を救ったという名君であった。金森家でもっとも有名な茶人、宗和は二代可重の長男で本名を重近といい、本来三代目を継ぐべきであったが、京都に隠棲して茶の湯に専念し、のちに「宗和流」を立てて一家を成した。
このほか、金森家からは安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)という人物を輩出している。『醒睡笑(せいすいしょう)』という、落語の元になった本の著者であるが、茶の湯の大家でもあった。
江戸時代に入っても、こうした風雅の道は高山の伝統として広く行き渡り、今日まで残った。またこのほかにも川柳、絵画、篆刻、能、謡曲、花道などさまざまな文化が伝えられたが、すくなくとも元禄時代に天領となり、江戸文化が入り込むまでは、京都風の文化が支配していたのである。
解説:
京都
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