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戦国時代の小京都

天下統一を狙う戦国武将は、かならずといっていいほど京都をめざした。古代からつづく権威ある京都において、天皇の威光を利用しながら天下に号令を発する機会を窺っていたのである。こうして京都は、戦国武将にとって強い憧れの都市としてシンボル化され、美濃の郡上、飛騨の高山をはじめ、越前の一乗谷、周防の山口、伊予の大洲(おおず)、土佐中村といった、いわゆる小京都が各地に出現した。自分の領国を、山に囲まれ、市中に川が流れる京都に見立て、祇園社や愛宕社を勧請して少しでも京都に近づけようと試みたのだ。「洛中洛外図」といった、京都の賑わいを写した屏風が地方の大名に人気があったもの、こうした気持ちの表れであった。
当時の京都は商工業の中心地であったが、町衆たちの自治と連帯のシンボルである祇園会(ぎおんえ。のちの祇園祭り)は、とくに人気があった。人口の多い町は疫病も多く、町人たちの結束も高いので、疫病から人びとを守ってくれる祇園祭りは受け入れやすく、祇園社(八坂神社)が勧請され、祭りとともに山鉾巡礼の形態も形を変えながら伝わった。大内氏の城下町山口では、本家・京都の八坂神社で奉納される鷺舞いが舞われ、のちに津和野にも伝播した。また祭礼だけでなく、和歌や連歌の会を開催し、猿楽や宮廷風の宴遊を移植する一方、雪舟をはじめとする文人墨客を招いて都の文化を摂取しようと努めた、山口のような都市も多かった。
こうした強い憧れは、日本人の文化的感覚が均質化されていたことを示し、また中央集権的な政治体制が定着していたことを意味しているが、京都という都市が当代随一の文化・情報発信センターであったことを、なによりも雄弁に物語っているといえよう。


解説: 京都

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