

京都の芸能文化
京都を焦土と化した応仁・文明の大乱は、その復興途上において輝かしい町衆文化を生み出した。町衆の生活のなかで茶の湯、立花、猿楽、謡(うたい)、風流(ふりゅう)踊りといった多くの芸能が生まれ、近世芸能文化の基礎を築いていったのである。また天下が統一されると、かぶき踊りの全盛時代を迎え人びとの熱狂は頂点を迎えた。洛中洛外に繰り広げられた芸能や祭礼は、さまざまな絵巻や屏風絵にも描かれ、往事の賑わいを今日に伝えている。
京都復興の推進役であった町衆にとって、祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれた祇園祭りの復活は、待望久しいものであった。1500年(明応9)、折からの甚雨をついて挙行された祭りは、本来のそれとはくらべようもない小規模なものであったが、桃山時代の最盛期になると、南蛮や中国から舶載された織物を飾り立てた山鉾が市中を巡行し、熱狂する人びとであふれかえった。
また、祇園祭りの再開された明応から天文にかけて、京都では空前の猿楽ブームが巻き起こった。奈良に拠点があった大和猿楽四座が京都に移ったことをきっかけに、地方から入京した猿楽や町衆出身の素人演者がこれに加わって大流行したものであった。
さらに、猿楽と関連して謡が盛んとなった。猿楽一座が宴席に招かれ、能のあとに謡を演じることもしばしばであった。この流行は公家にとどまらず、武士や町衆の間にも広まった。当時の流行歌を集めた『閑吟集(かんぎんしゅう)』には、猿楽の謡が四十首以上も採られている。また、謡の影響は祇園祭りの山鉾の造り物にも反映され、謡曲と同じ題材のものが多い。さらに本阿弥光悦、俵屋宗達、角倉素庵による嵯峨本にも、いち早く観世流の謡本が取り上げられているのも、生活文化のなかに謡曲が深く浸透していた証であろう。
夏の祇園祭りが終わると、つづいて風流踊りの季節が訪れる。お盆の季節に念仏を唱えながら祖先の魂を慰めるという、念仏踊りが元になった風流踊りは、祇園祭り同様、町組の芸能として盛んとなり、「四条踊り」「室町衆風流」「上京(かみぎょう)衆風流」などといった地域名を冠して共同体の結束を高めた。風流踊りの衣装や造り物は、金銀・金襴・緞子(どんす)・唐織といった贅沢なもので、京都の誇る工芸・染織の粋を凝らしていた。
一方、戦国武将が上洛をめざして覇を競っていたころ、地方の芸能者たちも都をめざした。当初「ややこ踊り」と称された芸能は、やがて「かぶき踊り」と名を変えて出雲の阿国を大スターに押し上げていった。戦国時代の世相を敏感に感じ取り、それにふさわしい演劇的描写が大衆の共感を呼んで熱狂的に支持されたのである。
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洛中洛外図「四条河原のにぎわい」
解説:
京都
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