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京都改造計画

戦国時代の京都は、上京(かみぎょう)、下京(しもぎょう)、北野、鴨川東岸祇園町、清水(きよみず)門前前、東寺門前町、禁裏六町などの都市集落が散在する複合都市であった。上京、下京の都市集落は地縁的な共同生活を基盤とした町組(ちょうぐみ)が組織され、周囲は土塀や堀で囲われた惣構(そうがまえ)で防護し、出入り口には木戸や櫓が設けられていた。戦乱の続いた戦国期の都市にあっては、このようにみずからが生活拠点を防衛しなければならなかったのである。
1568年(永禄11)上洛を果たした織田信長は、翌69年に将軍足利義昭のために上京と下京のほぼ中間に二条城を完成させ、周囲には武士団の屋敷を建設した。この結果、分離していた上京・下京が二条城を中心に結ばれ、一元化した。73年(天正元)将軍義昭を追放し、上京を焼き討ちするという暴挙によって見過ごされがちであるが、天下統一をめざした信長が、京都を首都にふさわしい近世的都市に改造しようとした試みと考えられる。
信長の跡を継いで本格的な京都改造計画に着手したのは、関白となった豊臣秀吉である。大坂を本拠とする一方で、天皇・公家の保護者としての威光を示すためには、京都を改造する必要があったのだ。計画では、禁裏御所、聚楽第を造営し、公家町と武家町を建設する。中心部を短冊型町割りにする。市中に散在していた寺院を集めて寺町を形成する。治水と市街防衛を兼ねた「お土居(どい)」を建設する、といった内容である。
短冊型の町割りを行なうことは、道路に面する町並を増加させ、空き地を活用させるという市街地再開発がねらいであり、寺院の移転は跡地を有効利用するのが目的であった。しかし1591年(天正19)に開始されたお土居の築造こそ、京都改造の総仕上げともいうべきもので、実質ひと月という短期工事で完成した。
お土居とは、京都の町全体を土塁と堀で囲い込む城壁のようなもので、高さ3メートル、総延長距離22.5キロ、基底部幅9メートルという巨大なもので、これに幅3.6から18メートルの堀を伴った。なお、土塁には崩れにくいよう竹が植えられ、十ヶ所の出入り口が設けられた。お土居建設には、戦乱時の防衛、罪人・悪人などの出入りの監視、賀茂川の氾濫による洪水防止、洛中洛外を明確化し、洛中を聚楽第の城下町と位置づける、といった目的があった。
秀吉による京都改造はお土居の建設をもって最後となるが、注目すべきは地子(じし)=宅地にかけられる税が免除になったことであろう。これによって、地主である公家や社寺の領主権を奪い、市民を懐柔して経済を活性化させるのが狙いであった。秀吉は京都の改造で商工業を発展させ、中央市場として位置づけようと考えたが、以後の発展はめざましく、17世紀初頭には人口30万人以上、洛中町数1,300町余を数える大都市に成長したのである。


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解説: 京都

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