

徳川幕府による大坂復興
1614年(慶長19)に開始された大坂冬の陣において、大坂城は関東方の大軍に包囲されながらも容易に落城する気配はなかった。20万の寄せ手に対し、一ヶ月以上持ちこたえ惣構(そうがまえ)のなかへは一歩も攻め込ませなかった。こうした大坂方の善戦の要因としては、秀吉が晩年に行なった三の丸の造成と城壁の強化が挙げられよう。しかし、ようやく和睦に漕ぎつけたものの、家康の策略によって石垣も濠も徹底的に破壊され、半年後の夏の陣では正味二日で敗北を喫してしまった。しかも台所からの出火により、豪華をきわめた建物すべてが石垣を残しただけで灰燼に帰してしまったのである。
焦土と化した大坂の復興を任されたのは、家康の孫にあたる松平忠明であったが、城の再建よりも先に、荒廃した旧三の丸を整備して市街地とし、また四散した住民を呼び戻してあらたに伏見の町人を移住させるなど、都市の復興に努力して家康の期待に応えた。しかし、旧三の丸は武家屋敷と町屋になったものの、平野町は村となり市中もかつての半分ほどに縮小された。さらに旧市街地の復興にあわせて、あらたな開発も開始された。道頓堀の完成と江戸堀の開削であるが、同時に堀に沿って町屋も建設された。
1619年(元和5)、幕府は松平忠明を大和郡山に転出させると、大坂を直轄地とした。さらに、豊臣ゆかりの伏見城を廃して城下の町人・職人をすべて大坂へと移住させた。かくして大坂は、名実ともに畿内の拠点に定まったのである。こうした再編を経て、10年におよぶ大坂城の再建がいよいよ開始されることとなった。
大坂城の再建工事は、二の丸の西・北・東の濠、ついで本丸、二の丸南の濠の建造、といった順で行なわれ、豊臣時代の二の丸は完全につくりなおされた。再建とはいいながら、豊臣時代の痕跡を残さない新造といってもよい大工事であった。1620年(元和6)に開始され、29年(寛永6)に終わるまで秀忠・家光の徳川二代に渡り、64家の大名を動員した、まさに「天下普請」であった。
解説:
大坂
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