

石山本願寺
戦国時代、北陸・畿内をはじめ各地で盛んとなった一向一揆は、浄土真宗中興の祖・8世蓮如のときに北陸門徒の組織化に成功し、本願寺教団は一大勢力として確立した。その後、1489年(延徳元)蓮如は隠退し、96年(明応5)摂津国東成(ひがしなり)郡生玉(いくだま)に坊舎を建て隠棲したが、これがのちの石山本願寺で、当時「大坂御坊」とも「石山御坊」とも呼ばれた。建立場所は、秀吉が築城した大坂城本丸のあたりと推定されている。
蓮如没後の1532年(天文元)、本拠・山科本願寺が細川晴元との争いで焼かれると、10世証如は本拠を大坂御坊に移したが、このころにはすでに寺内町が形成され、自治組織も整備されていた。当時の本願寺は、全国に組織した講から送られてくる金や年貢などを背景に莫大な財力を有し、宣教師ビレラはその報告書に「日本の富の大部分は此坊主(本願寺住職)の所有なり」と書き記すほどであった。70年(元亀元)、天下統一に着手した織田信長はこの地を入手しようと本願寺を攻め、世に言う石山合戦が始まったが、80年(天正8)朝廷の斡旋によって和睦し、11世顕如らは石山本願寺を退去して紀伊国鷺森に拠点を移したのである。
『信長公記』によると、本願寺の城構えは七町×五町とあり、現在の大坂城の約88パーセントに達するというから、驚異的な広さであった。領国加賀国から専門家を呼び寄せて築城、中心部を一段高くして周囲には水をたたえた濠を巡らせていたというから、完全に城郭化されていた。しかもその周囲にはいくつかの支城を設けていたので、さすがの信長も苦戦を強いられたのである。
さて信長との和議が成立し、いよいよ明け渡しとなった8月2日、混乱のなかで突如火災が起こった。栄華と堅固を誇った石山本願寺は、「一宇も残さず夜昼三日、黒雲となって焼け」、信長の手に入る寸前、すべてが灰燼に帰したのであった。
解説:
大坂
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