

秀吉による大坂の都市計画
近世最大の商工業都市大坂は、古代に難波宮がおかれるなどその歴史は古い。しかし大坂という地名は、1496年(明応5)蓮如が「大坂御坊」を営んだときが初出とされる。1583年(天正11)、羽柴秀吉は賤ヶ岳合戦で勝利したのち、天下統一の拠点として大坂城および城下町の建設に着手したが、城は一向宗・石山本願寺の遺構の、ほぼ真上に建設されたものであると推定されている。
大坂の都市計画の特徴は、「町割り」と呼ばれる区画方法にある。1886年の平野町実測図によると、間口約108メートルが一町の単位となっており、道に沿って南北に12町分並んでいた。町の形成時期からみて、この短冊形地割りこそ大坂の町割りの原型「天正地割り」であり、近世都市計画の基本形となったものであると考えられている。
こうした市街地の家は、建設開始からわずか四十数日間で7,000軒が建てられたというから、信長が安土で行なったように、商工業者誘致のための保護政策がとられたことは想像に難くない。ましてや建設期間中に常時3万人以上の労働者が働いていたことを考えれば、急速な都市化は可能であったろうし、加えて堺や京都からは強制的な移住も行なわれた。このことは安土町、伊勢町、淡路町、阿波座、土佐座といった地名からも裏付けられている。
一方、秀吉の支配権が拡大するとともに、大坂に参勤する大名の邸宅が続々と建てられたことから、経済的な面ばかりでなく、政治的にも急速に中心都市へと変貌していく様子が窺える。
秀吉の都市計画は、最晩年の98年さらに強化された。記録によると、三の丸と塀の増築、城下の増築と七万軒以上の住民移転による町の活性化、というものがその骨子であった。なお、このとき増強した三の丸の濠と城壁は、大坂冬の陣で威力を発揮するが、徳川方との和睦によって取り壊されたため、夏の陣では豊臣氏の滅亡へとつながり、秀吉の危惧は図らずも的中するのである。
関連図版:
摂津大坂
解説:
大坂
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