

安土に築城した理由
信長が安土に築城した理由はいろいろ考えられるが、以下にその理由を挙げてみよう。
[地理的要因]
中山道、北国道、東海道という主要な街道を押さえる位置にあること。すなわち、中山道と北国道が合流する佐和山と、鈴鹿関から畿内に入り北国道にぶつかる草津との中間点に安土がある。また、安土の東には八風(はっぷう)街道があり、伊勢湾方面に抜ければ桑名から船で津島、清洲、岐阜といった、信長縁故の地へ往来できる、といった地理的条件が揃っていた。まさに安土を中心として東海、北陸、近畿が同じ視野に収まり、ヒト、モノ、カネの流れが容易に掌握可能であった。
[湖上交通]
現在は埋め立てられてしまったが、当時、琵琶湖最大の内湖群が城の三方を囲み、湖上交通を最大限に活用できた。内湖は水深も深く、湖東に入り込んで物資を積み卸しするのに便利であり、また信長が1573年(元亀元)に建造した軍艦・安宅(あたけ)船もこれを利用すれば、湖東と湖西を直線で連絡できた。
[石工と石材資源]
安土城はまれに見る堅固な石垣が特徴であるが、石垣普請を得意とする穴太(あのう)衆が、安土周辺の蒲生(がもう)に居住していた。これまでの合戦で、石垣の堅固さを実感していた信長は、最高の石垣つくりをめざしたことと思われるが、長光寺山、伊場山、長命寺山などの石切場が間近にあったことも幸いした。こうした石材は、琵琶湖の舟運によって運搬が容易であった。
[地形]
岐阜や小谷(おだに)などのように、あまりにも峻険な山城は日常的な活動では不便を感じるが、その点ある程度の高さがありながらも、全山造成可能な山であった。また、麓に家臣団の屋敷を配置すれば山全体を要塞化できた。さらに、安土山の背後には、六角氏が築いた観音寺城も残っており、万が一の場合には最後の拠点にすることも可能であった。
解説:
安土
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