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城下町安土

信長は城下町安土の繁栄を図るため、1577年(天正5)六月、13条からなる「安土山下町中掟(あづち・さんげ・ちょうちゅう・おきて)」を下し、商工業の保護および統制に乗り出した。この掟書きの第一は、「楽市楽座として仰せつけらるるの上は、諸座・諸役・諸公事(くじ)等ことごとく免除の事」という有名なもので、楽市楽座を規定して自由市場を認めた。そのほか、押し売り・喧嘩などを禁じて市場の平和をはかり、徳政にも例外を設けて債権・債務の関係を確保した。さらに往来する商人は必ず安土に宿泊を強制し、馬の売買はすべて安土で行なうことを規定するなど、画期的な優遇措置や特権を与えたため、城下は大いににぎわった。また、キリスト教宣教師を大切に扱った信長は、セミナリオの建設を許可した。そこではラテン語や音楽、その他西洋の学問や技術が日本人に伝えられ、信長が愛したオルガンの音が町中に響き渡った。
信長は、都市生活を華やかに演出すことにも気を配った。城下の常楽寺では相撲の興行を行ない、人気を博した。1579年(天正7)暮れには米三百石を町人に与えて酒宴を開き、荒木村重の乱の制圧を喜び合い、81年正月には鷹狩りの獲物を町人たちに与えた。また天主や寺に提灯をつり下げ、濠にはたいまつをかざした船を浮かべ、見物人が大勢あつまるのを見て楽しんだ。
現在、城下の町割りや建築物の位置などは、ある程度地図上で復元可能であるが、実際に残された遺構は少ない。フロイスが「民家は相櫛比して美観をつくり、その数五、六千」と記した城下の様子はコンピュータグラフィックスによる再現で想像するほかない。


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解説: 安土

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