

東西の接点・美濃
美濃国は、織田信長が天下統一の拠点を岐阜に置いたことからもわかるように、東から西に攻め入るさい、戦略上重要な位置を占めていた。徳川家康が関ヶ原の戦を制し、天下統一を開始した舞台が美濃であったことは、たんなる偶然ではないのだ。
美濃は畿内から東国に至る東山道の出入り口にあたり、古来より軍事的、政治的、経済的な要衝であった。鎌倉幕府以後、東国との境を接する西国に位置づけられ、承久の乱では京方に属した。また、応仁の乱において土岐氏は西軍として戦い、居城である革手には戦乱を避けて京都から多くの文化人が訪れ、地方文化の拠点となった。
しかし、東西の重要な接点にあたる美濃には、強力な支配者はついに現れなかった。斎藤道三にしろ織田信長にしろ、美濃一国を直接支配したのではなく、また領国を経済単位として編成したものでもなかった。東濃が岐阜よりも尾張や信濃と密接な関係をもっていたこと、河川が縦横に広がる平野部を、ひとつにまとめることが困難であったことなどが原因として挙げられよう。岐阜城は、畿内に攻め入るための基地とするには適していたが、平野部を統轄するための城ではなかったのである。
強力な領主が現れなかった要因としては、輪中(わじゅう)を構成する村連合の存在がある。中世末期に形成された村連合は、治水だけではなく、すべての共通利害を守るための自治組織であり、その伝統は近世にも受け継がれ、排他的ともいえる強固な結束力を示して外部からの支配を許さなかった。同様に、河川の湊や町場も自治的性格を帯び、領主の権力介入を容易に受け入れなかっただけでなく、近世になって楽市的性格を失ったあとも、大垣、加納、岐阜といった城下町に吸収されず、周辺地域の中心として存在しつづけたのである。
このように、美濃平野一円は政治的・経済的な一体性がなく、良く言えば自立的、悪く言えばまとまりのない社会を形成し、ついに強固な国をつくりあげることができなかった。
解説:
岐阜
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