

長浜の都市計画
琵琶湖の北岸長浜は、豊臣秀吉が織田信長から初めて与えられて建設した城下町である。南北朝時代、北朝側の京極氏の命を受けて今浜氏が築城して以来、水路と陸路の要衝として重要な位置を占めた。その後、浅井氏の領地となったが、1573年(天正元)信長に滅ばされてからは秀吉の所領となった。秀吉が、それまで今浜と呼ばれていた長浜に築城する以前、支配者であった浅井氏は山寄りの小谷(おだに)に城を構えていたが、秀吉はそれを踏襲せずに、なぜ長浜に城を築いたのであろうか。
まず、長浜は大津、京都へ至る水上交通の拠点であり、また中山道、北国街道へと連絡する陸路の要衝でもあったからだ。また、山上に城があった小谷は城下町としての発展性は乏しかったのに対し、長浜は平地にあるため都市つくりにも適していた。さらに戦国大名を悩ませた一向一揆の拠点である浄土真宗の寺が集中し、それらを統轄するのに便利であったことも理由として挙げられよう。また、町の側には鉄砲つくりで名高い国友(くにとも)の集落があり、職人たちの工房が集中していたことも大きな要因であった。
城の最大の特徴は、西が琵琶湖、南北が船舶用の水路、東が舟入(船舶の停泊港)と四周を水で囲われた水城であることだろう。これにより、東南に位置する朝妻港と城が水路交通の要となり、水で囲むことで攻撃されにくい構えとなった。
また特筆されることは、城下町が一向宗の寺・大通寺を中心に、戦国時代としてはめずらしい碁盤目状の町割りになっていることだろう。通常は敵が攻めにくい不規則な形状の通りも、長浜では機能的で見通しが利く、現代風の都市景観を構成していた。東西七丁、南北十丁と当時としては大規模なものであった。また秀吉は、寺院の移転とともに、小谷の職人や商人たちを強制的に長浜に移住させたが、地租の免除や楽市・楽座の権利を与えたため、みずから進んで移転してきたという。こうした手法は、後の大坂における大規模な都市計画や徴税法の基本となった。
関連図版:
長浜城と石垣の石2個|
大通寺|
大通寺門前町|
長浜豊国神社
解説:
琵琶湖
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琵琶湖の丸子船
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