

徳川初期の河川交通
河川を利用して人や物資を運送する方法は、原始・古代にまでさかのぼることができるが、もっとも盛んになったのは近世で、徳川家康の天下統一後である。江戸・大坂の二大都市を中心に、全国的な経済流通の発展に伴って幕府、諸藩の年貢米や各種物資をきわめて安く、しかも大量に運送できることから全国的に発達したものである。
主要河川に就航していた川船は船底の平たい高瀬船と、それによく似たひらた舟で、両船ともかなり大量の荷物を積んで帆走することができた。高瀬舟の最大級のものは船長約26メートル強で、積載量は米1200俵という記録もある。ひらた舟の場合は、船長約24.4メートル、積載量は米500俵ほどであった。
1590年(天正18)、江戸へ入城した徳川家康は、関東郡代に命じて関東の河川整備に着手したが、とくに大規模であったのは利根川と荒川の改修工事であった。これにより江戸と関東・東北・上信越方面の農村とを結びつける河川交通網が形成され、水運発展の契機となった。
また、畿内では淀川の水運の重要性に着目し、1603年(慶長8)には運上金の上納や運賃などに関する七カ条を定めた。1625年(寛永2)に230艘であった淀二十石船は、数年後には500艘にも達し、当時の盛況振りがうかがわれる。また、古くから大坂市内には縦横に水路が走っていたが、文禄年間(1592年〜96年)には上荷船・茶船が頻繁に活動していた。1673年(延宝元)には新規に出願する者がいて、前者が300艘、後者が200艘追加公認されたほどであった。
関連図版:
高瀬船
解説:
河川交通
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